TPO論、「公共の場にふさわしくない」論の正体~自主規制の危険性~

これまで、私のnoteでは「表現の影響」について科学的に検討し、「性的表現が、性犯罪・性差別を助長する根拠はない」と論じてきたわ。

とはいえ、次のような批判の声もあったのは事実よ。

「誰も科学的根拠や因果関係があるという話なんかしていない!」
「(性的な)萌え絵は、TPOや公共の場に相応しいかどうかの問題だ!」

確かに「Twitter論壇的な言論空間」においては正しい指摘かもしれないわね。

でも、世界の動向は必ずしもTwitter論壇と一致しないのも事実。

実際問題、

1.国連女子差別撤廃委員会の勧告文書や日本ユニセフの「準児童ポルノ」の法的規制を求める声明
2.フェミニスト議員連盟のVTuber戸定梨香に対する抗議文書
3.共産党の「非実在児童ポルノ」に関する声明

他にもたくさんあるだろうけど、直近だとこのくらいかしら。
これらでは、相変わらず「性犯罪や性差別を誘発・助長する」というスタンスが採用されているわ。

特に国連女子差別撤廃委員会は、表現物と性犯罪・性差別の因果関係はもはや前提として、「原因」である表現物を法的に規制するよう日本政府に繰り返し勧告しているわね。
2016年に発行された同委員会の最終見解は以下の通り。

固定観念と有害な慣行
20.委員会は、家父長制に基づく考え方や家庭・社会における男女の役割と責任に関する根深い固定観念が残っていることを依然として懸念する。委員会は,特に以下について懸念する。
(a) こうした固定観念の存続が、メディアや教科書に反映され続けているとともに、教育に関する選択と男女間の家庭や家事の責任分担に影響を及ぼしていること、
(b) メディアが、性的対象とみなすことを含め、女性や女児について固定観念に沿った描写を頻繁に行っていること、
(c) 固定観念が引き続き女性に対する性暴力の根本的原因であり、ポルノ、ビデオゲーム、漫画などのアニメが女性や女児に対する性暴力を助長していること、並びに
(d) ……(中略)

21.委員会は、前回の勧告(CEDAW/C/JPN/CO/6、パラ30)を改めて表明するとともに、締約国に以下を要請する。
(a) 伝統的な男女の役割を補強する社会規範を変える取組とともに女性や女児の人権の促進に積極的な文化的伝統を醸成する取組を強化すること、
(b) 差別的な固定観念を増幅し、女性や女児に対する性暴力を助長するポルノ、ビデオゲーム、アニメの製造と流通を規制するため、既存の法的措置や監視プログラムを効果的に実施すること、
(c) ……(後略)

国連女子差別撤廃委員会『日本の第 7 回及び第 8 回合同定期報告に関する最終見解(仮訳)』(2016年)

私がフェミ議連を批判していると、以下のようなことをやたらと言われた。

「フェミ議連は『性犯罪誘発の懸念が感じられる』と言っているだけで、『性犯罪を誘発する』とは言ってない! 自由戦士はズレた反論をしている!」

だけど、フェミ議連が根拠にしている国連女子差別撤廃委員会の資料にこう書いてある以上、通らない言い訳でしょう。

「性犯罪や性差別を誘発・助長する考える科学的根拠はない。」と指摘することは、人々から無用の懸念を払い、不合理・不必要な自由の制約を起こさないようにする点で、ちゃんと社会的意義があるわ。

とはいえ、「Twitter論壇的な世界」も無視はできないし、無視するつもりもないのよ。非常に大きな問題よね。


「自主規制なら安心」ではない。

彼らが言う表現規制論は、端的にまとめれば、

「その表現物には性的な要素があるため、公共の場というTPOにふさわしくない。ゆえに、自主規制(ゾーニング等)をするべきだ。」

という主張ね!

※「ゾーニング」は単に区画分けすることも指すけど、ここではそのうち年齢や場所で制限し、条件を満たさない人は閲覧できないようにする措置に限定するわね。(例:のれんの奥の18禁コーナー等)

この論理に基づいた「炎上」で日夜狭まっていく表現の幅は、現代的でリアルな「表現の自由」の危機を引き起こしていると言っていいでしょう。

そして、この論には、他にはない問題もあるのよね……。
実は、日頃から「表現の自由を守りたい」と主張している人の中にも、この見解には賛同する人たちが結構いるのよ。

例えば、最近だと石川優実さんに対する鋭い批判で知られるみやびmamaさんが次のように仰っていたわ。

もちろん、意見は自由なんだけど、もし読者さんにも「自主規制」や「自主規制によるゾーニング」が、「表現の自由を傷つけない安全な何か」だと思っている人がいるなら、それは違うと言いたいわ。

「ゾーニング」と簡単に言うけど、特にここでは、ある表現を「公共の場から排除する」という意味に他ならない以上、きわめて慎重な議論のうえに決定されるべきなのよ。
少々の不快感で「ゾーニングすればいいんじゃない?」みたいに軽く提案するもんじゃないわ。本来はね。

自主規制全般について言えば、「炎上」等による表現の萎縮効果は確実に業界のダメージとなっていて、先日も次のような現場の声を伺っているわ。

表現の自由を守る側の人たちの中にも、「現状の自主規制は維持されて問題ない。今以上に自主規制が拡大することが問題だ」とやや穏当に主張する人がいるけれど、私としては上のような事情もあって、「本当にそう?」と思うのよね。

そもそも、出版社等と直接の関わりがない私たちは、どれほど「自主規制」の実態について把握できているのかしら?

把握した上で問題ないと主張しているなら、それも一つの意見でしょう。けれど、把握もできていないというのが本当の所だと思うのよ。

また、「法令的規制よりも自主規制のほうがまし」という論もあるけれど、これも場合によるわ。

まず、自主規制は罪刑法定主義が通用しないし、専門家によって利益衡量が検討されることもないでしょう。また決定が不服であっても上告ができるわけでもない。
そもそも、「どんな自主規制をするか?」についての議論からして公開もされない。

一企業の自主規制くらいだったらともかく、業界全体に働いて私たちの生活に広く影響する場合、実質的な表現の自由はひどく狭まるわ。
「○○という表現は事実上、出来ない」という結果を生み出したのが、法令的規制か自主的規制かは、クリエイターとその作品のファンからすれば問題ではないでしょう。

したがって、自主規制が広範囲に及ぶ性質のものの場合、その恣意性・不透明性は法令的規制より余程ハイリスクなのよ。

もちろん、私的自治の原則(契約自由の原則)があるから、それも尊重されるべきだけれど、自主規制であっても「批判的に気をつけて見ておく必要があるもの」という危機感は持ってほしいわ。


本当に「自主」規制か? 聖域のない議論を

また、これも大事なんだけど、

「国家権力による法令的規制」と「民間による自主規制」はそう簡単に分離できないのよね。

これについて、「表現の自由」に関する法学の権威として知られる東京大学名誉教授・奥平康弘さんの著書がわかりやすいから、引用しましょう。ちょうど自主規制について述べた箇所があるわ。

 言論・報道機関が、みずからの影響力の大きさにかんがみ、恣意的な放縦・奔放を自己抑制しようとすることは、それじたいけっこうなことである。また、公権力の介入を避けるため防波堤として自主規制を設けようとする意図もわからないではない。しかし現在、マスコミが採用している自己規制メカニズムは、活気ある議論をことさらに避け、ことなかれ主義もしくは商業主義に仕えるために役だっているきらいがある。また公権力介入の防波堤といいながら、かえって、自主規制メカニズムは公権力統制のカクレミノになってしまっている側面もあるようである。マスコミには、個々の企業が公式・非公式に備えている自主規制メカニズムのほかに、各企業間を横断した多かれ少なかれ公式の統制機構がある。検閲機能を果たしている点でいちばん知られているのは、映倫(映画倫理規定管理委員会)であるが、映画のみならず各マスメディアには、それぞれ「倫理綱領」「倫理規定」「番組基準」と称する規則があって、これを管理する機構をもっているのである。
 「新聞倫理綱領」(昭和21年6月23日)(および全国新聞経営者組織としての新聞協会)、「映画倫理規定」(昭和24年6月14日)(および映倫)、「日本放送協会放送準則」(昭和26年10月12日)などは、すべて占領軍自身により検閲がおこなわれるなかで、もしくは占領軍検閲の肩がわりとして、制定されたものである。官僚統制を代位するものという性格は、そもそもの設立の経緯にてらし顕著である。
 出版物の流通過程、取次・販売の過程にも、自主規制のメカニズムが設けられている。各地方の小売店でも、地方レベルの仕入れ統制が、たとえば、昭和38年ごろの「悪書追放」キャンペインに影響をうけているばかりではなく、県庁や県警のお役人の「指導助言」に依存しているばあいが少なくない。かならずしも自主的ではない自主規制という色彩がこい。
 公権力もしくはそれに準ずる社会的諸力の関与のもとに、自主規制のメカニズムが生まれる
のだが、多くのそれは、法律上規定された存在ではない。国法上はおもてに出ない、もぐった存在である。

奥平康弘『表現の自由とはなにか』中公新書(1970), pp.166-167.

すべての自主規制がダメだという訳ではないけれど、法令的規制と同じくらい慎重な検討が要るものだし、常に批判的に検討し、議論するべきだわ。

上に引用した通り、国家権力としても法令的規制は困難だから、民間を経由して間接的に規制を行うことはごく当然にあるのよ。だから「民間の企業ないし団体名で行われているから安心できる自主規制!」というのは、歴史も現実も見えていないと言わざるを得ないわ。

また、表現規制の反対活動で知られる高村武義さんが執筆された次の論文も参考になるでしょう。「誰が主体として表現規制をしようとしているのか?」が単純には決められない難しい問題であることを明らかにしているわ。

※青林工藝舎『アックス』「第12回マンガ評論新人賞」論文奨励賞

 これら一連の表現規制を推進している団体は政党や警察庁などの官庁、また日本ユニセフなどの民間団体など様々である。彼等の活動は地方条例や国の法律による規制の働きかけや、大手マスコミを動員したキャンペーンなど多岐に渡っており、これにさらに外圧が加わる形になっている。団体構成や活動内容は違えど、その矛先は漫画やアニメの性表現規制に向けられている点で、全て一致している。

高村武義『マンガ包囲網 ─政官業民一体で推進される表現規制の多重構造─』(2012)visited 2021/01/02

さて――なぜ、こんな説明をしつこくしているのか?
ちょっと不思議に感じた人もいるかもしれないわね。

それは、「民間の自主規制なんだから、各企業や団体の自由であって、口出しするべきではない!」と【聖域化】しちゃう人がわりといるからよ。

企業さんの決定の口出しすべきでないなら、そもそも発端の「規制しろ」系クレームもつけるべきじゃないでしょとか思うところはあるんだけど、自主規制であっても、妥当性について批判を行うのは「表現の自由」の理念・主旨に適う立派な活動よ。

一切遠慮せず、バンバンやっていきましょう。(ダメなのは犯罪くらいよ。)


国家・憲法の外側における「表現の自由」の問題

さて。それでもまだ、「それでも国家権力が介入していないなら、表現の自由は侵害されていないはずだ」と言いたくなる人が一定数いると思うわ。
その説明をしておきましょう。

たしかに自主規制に関しては、「国家権力は表現の自由を侵害していない」「国家は憲法の規定に違反していない」という言明なら正しいわ。
しかし、これらはただちに「誰による人権侵害もない」ことを意味しない。

というのも、私人間(「しじんかん」と読むわ)の人権侵害は存在するのよ。憲法は、特に侵害行為の主体が国家である場合について重点を置いて書かれているに過ぎないから。
そもそも人権思想(天賦人権論)では、「人権を侵害できるのは国家だけ」「人権侵害」という決め事はなくて、民間団体でも個人でも、人権侵害は可能なのよ。

法務省のWEBページでも、当たり前に「私人間の人権侵害」について記述されているわ。
(加えて、人権侵犯事案の統計資料では、普通に「私人間の人権侵害」が立項されカウントされているわね。)

人々が生存と自由を確保し,幸福を追求する権利としての人権は,人間の尊厳に基づく固有の権利であって,歴史的には国家を始めとする公権力からの不当な侵害を抑制する原理として発展してきたものであるが,今日においては,公権力による人権侵害のみならず,広範かつ多様な差別,虐待事案等にみられるように私人間における人権侵害も深刻な社会問題として広く認識されるに至っており,国は,このような私人間の人権侵害についても,その被害者を救済する施策を推進する責務を有している(人権擁護施策推進法2条)。

我が国における人権侵害の現状と被害者救済制度の実情
法務省 visited 2021/12/28

「人権」および「人権侵害」は、国家と憲法のみに限定される概念ではないのよ。仮にそう限定されるなら、人権思想に基づく憲法がない国家や、国家が機能していない地域では、どんな人権侵害も原理的に発生しないという不合理な帰結を招いてしまうわ。

ただ、公平のために言っておけば、自然法・自然権の存在を否定する法実証主義の立場から「そうだ。そうした地域では人権侵害は存在しない」と答えることも可能ではあるわ。
けれど、人権が成立した歴史的経緯を考えると、実は支持しにくい考え方なのよね。

人権が国家権力と憲法によって承認されて初めて「授与」されるものだとすると、国家権力の都合で「没収」された時、それを人権侵害だと異議申し立てすることが論理的に不可能になっちゃうし。
だからこそ、「生まれながらにして万人が持っている」(つまり「授与」されるのではなく、「既にある」)というフィクションを採用しているの。

また、現実に、国際社会は非国家組織や無政府状態の地域においても「深刻な人権侵害」を度々非難しているわよね?
これは、「人権侵害風だが本当は人権侵害ではないこと」をレトリック的に短縮して「人権侵害だ」と表現しているのではなく、言葉通りに人権侵害を非難していると解するべきでしょう。

したがって、「私人間の問題だから、人権の問題ではないし、表現の自由の問題でもない」という指摘は、人権思想の原理に照らしても、国際社会の認識に照らしても、偏狭なモノの見方といえるのよ。

一般市民からのクレームによる表現の萎縮現象を懸念し、「私たちは表現の自由を守るために、そうしたクレームに対抗する言論活動を展開していく」と表明しても、言葉の選択は間違っていないわ。

私人間の自主規制であっても、そこで争われているテーマはやはり「表現の自由」よ。

この点に関しては、弁護士・吉峯耕平さんの以下のまとめが参考になるから、皆さんにも紹介しておくわ。

また、弁護士・平裕介さんの次のツイートから始まるリプライツリーは前後も含め文献が多く提示されていて、これまた参考になるわ。

ツイッターの反応も見ている限り、異論反論もあるかとは思うんだけど、少なくとも複数の法律の専門家および文献に支持されるレベルで「重要な見解」のひとつだと認識していただければ幸いよ。

もちろん、特定の表現について「公共の場から排除しろ」という非常に不寛容な主張を唱えるのは、表現の自由で守られる権利でしょう。けれど、不寛容な主張の存在に同意しても、不寛容な主張の実現に同意するべきではないわ。それは私人間の人権侵害にあたる可能性がある。

それに「クレームによって勝利すれば気に入らない表現を公共の場から排除できる」を、他でもない私たちが暮らす社会のルールと認めるなら、そこで始まるゲームは、どちらがどれだけ面倒で悪質なクレーマーになれるかという理性なき戦争でしかない。それは「表現の自由」の理念・主旨から最も遠い位置にあるものでしょう。


Twitter流表現規制論=TPO論の利点

それでは、TPO論について更に検討していきましょう。

「その表現物には性的な要素があるため、公共の場というTPOにふさわしくない。ゆえに、自主規制(ゾーニング等)をすべきだ。」

まあ、Twitterやってるとよく見るのだわ。

この論の利点は何かといえば、余計なことを言わなければ崩れないことね。ひたすらレスバに負けないことに特化しているというか、防御力に全振りしたらこうなるというか。

高い防御力――が、あるように見える原因は、次の2つ。

1. 「公共の場というTPOにふさわしくない」は、定量的に分析可能な問題ではなく、価値観や思想のレベルに属するため、科学的な反論を受けない。
2. また「法的規制ではなく、自主規制」としておくことで、法学(特に憲法論に基づくもの)による反論を受けない。

要するに、客観的に検証できる土台に立脚していないから反論されにくいという構造ね。

…………そんなものが「論」と呼べるかは別として。

まずは1と2と少し細かく見ていきましょう。


科学的議論の回避

法令的規制にせよ自主規制にせよ、それを正当化するにあたって、「科学的な根拠」を用意してしまうと、(同語反復だけど)科学的に検証されてしまうのよね。

その代表例は言うまでもなく、「性犯罪や性差別を誘発・助長する」よ。
前のnote記事でも紹介したように、「性犯罪」についてはミルトン・ダイアモンド、「性差別」についてはC・J・ファーガソンの総説論文が強敵として立ちはだかるわ。

もちろん、一部、表現規制派に有利そうな報告をしている論文もあるんだけど、不利な報告をしている論文も同じかそれ以上にあるわけ。

更に悪いことに「有利な結果を出せる間違った研究のやり方」すら既に広く知られてしまっているわ。

例えば前掲のファーガソンは、「表現に悪影響あり」と主張するメタアナリシス論文について、出版バイアスによって結果が歪んでいると実際に検証して示しているわ。(暴力行動に関する研究だけど、同様の批判は可能よ。)

また、いちいちここまで高度な統計解析を使わなくても、次のようにもっと素朴な検討によって主張が崩せることが非常に多いのも事実よ。

① 研究対象はどういった性質の集団で、また何人を調べたのか。
② 「性差別」の定義は何か。
③ どうやって「性差別」の程度を測定しているのか。
④ その測定方法は妥当か。
⑤ 得られたデータで、結論で述べられている主張を正当化できるか。
(相関関係までしか言えないはずの結果で、因果関係まで述べていないか、等)

これらをチェックリスト的に検討すると、何らかの(しかし致命的な)不備が発見できるわ。
そうした事態が生じないよう慎重に「悪影響論」を組み立てるのは、めっちゃ高度な知的作業よ。ほぼ無理だと言って差し支えないわ。

その無理を避ける点でTPO論はなかなか優れてはいるんだけど、ただし、根拠を尋ねられた時にうっかり検証できる根拠を言うとまずい事態になるわ。例えば、軽率に「常識だ!」とか言ってしまうと、次のように批判されるでしょう。

「多数派に支持されているかどうか」なら、これは世論調査でもすれば分かることだし、逆に、世論調査していなければ分からないことだとも言えるわ。常識だと判断したデータを要求し、提出できなかったら不可とするのは議論的には正しい対応よ。

加えて、本来、フェミニストのような左派勢力は「多数派の意見」と相性が悪いことも指摘しておきましょう。人数で正しさを決めることと、社会に変革を求めることは原則として両立しないのよ。

いま支持者が少ない表現であっても、公共の場で自らをアピールする権利はお互い最低限守らないと、自らの首を絞めることにもなるでしょう。人数によって公共の場に存在していい表現とそうではない表現に線を引くこと自体に私は反対なのだわ。

それに「表現の自由」のような権利は、原則として弱い立場の者のためにあるわ。「世間に受け容れられる表現のみ、公共の場での存在が許される」のだとしたら、そんな自由は封建社会にもあったのだから、「表現の自由」は事実上骨抜きになってしまうわ。

そんな自由に何のありがたみがあるのかしら? 少数の人にとって大切な、けれど多くの人とって不快な表現ほど守らなければならないというのが、「表現の自由」の根本的な理念でしょう。


法学的議論の回避

さて。次は法学的な議論を回避する理由について説明しましょう。

表現について法令的規制を成し遂げようとする場合、当然ながら、法学、特に憲法論で正当化されなければならないわ。
でも、それには、科学的議論にもまして厄介な敵がいるのよ。

つまり、「二重の基準」の理論、事前抑制の禁止、明確性の理論、「明白かつ現在の危険」の基準、LRAの基準――まあ、細かくは検索してもらえばいいんだけど、「萌え絵ポスター」「性的な要素があるイラスト・写真」程度で突破するのは完全に不可能と言っていいわ。

だけど、自主規制であれば、そもそも法令の問題ではないのだから、法学的な根拠は不要になるわね!

まあ、「不要」に落とし込まないと勝ち目がないからだけど。

ただ幸いなことに、「法令的規制には反対しているからこそ――"あえて"憲法論に基づいた根拠は述べないのだ!」という論は成立するわ。

あらあら。けっこう強そうね。
これは批判しようがないのかしら?

――もちろん、そんなことはなくて。


TPO・公共の場にふさわしくないの終焉

達成したいのが「公共の場からの特定の表現の排除」という点に、実は批判のポイントがあるわ。

だって、一企業の展示スペースとかではなくて、あらゆる「公共の場」全体の話よ?

そこに「あっていい表現」「あってはいけない表現」を決めるって話よ?

それって……まず間違いなく国民全員が関わる超巨大な話だから、そんなフワッとした決め方自体が「不当」かつ「危険」として、拒否すべきでしかないわ。

もちろん、「ある企業のCMは差別的だから取り下げるべきだ」という個別的な批判ならばいいでしょう。健全な言論のやり取りで済む話だわ。これを抑制するのはかえって「表現の自由」を損なう点、私も同意するわ。

でも、「公共の場の使い方」に口出しするなら、それこそ科学的・法学的な水準の根拠は求められて当然よ。ていうか、求めないとヤバイでしょ。

「TPOに違反している」という指摘には、ぶっちゃけ反証可能性が無いわ。

一体どのような条件を満たせば「違反している」ことになり、逆にどのような条件を満たさなかったら「違反していない」ことになるのかしら?
これが明確でない「TPO」なる概念を特定の表現を排除する根拠として認めるなら、それは単に「権力の強い集団による表現弾圧を許す」という意味にしかならないでしょう。

TPO決定権の奪い合いというパワーゲームに負けた側の強制退場が肯定されるなら、「日本国民には表現の自由が保障されている」という文章は、実質的には何も保障していない空約束になるわ。

さて。違反している・していないについて、Twitterでは、都道府県に配布されている表現ガイドラインが提示されていたわね。
けれど――ご存知の方も多いかと思うけれど――ほとんどの表現ガイドラインは失効した上、大阪府表現ガイドラインに関しては山田太郎議員や藤末健三議員、青識亜論さんも動いて、内閣府からその扱いについて回答を得ているわ。

「規範的な「~すべき」集ではなく、公的な広報として広く受け入れられるものとなるよう「留意点」をまとめたものであり、個別の案件について、違反か否かといった尺度を示すものではない」

この回答はある種当然で、「このガイドラインは、特定の表現を公共の場から排除する根拠にして良い」とは言いようがないのよ。

私はTPO論で表現を排除することの危険性をわかってほしいのだわ。それをやるのは人権侵害になる可能性があるし、仮にそうでなくても破滅的なクレーマー合戦しか導かれない。

公共の場の表現について、その是非を決めるならば、せめて科学的・法学的な水準での議論があるべきでしょう。「それくらい必要だよね」とお互いに約束しておくことが、多様な人々が共存する社会には必須なのよ。客観的に話し合える基盤がなければ、繰り返しになるけれど、クレーマー合戦しか道がないわ。

それでも表現の排除運動を続けるなら、そうした人々については、私は表現の自由を守るために、徹底的に不寛容であらざるを得ないわ。

最後に、ナシーム・ニコラス・タレブが著作で「寛容と不寛容」について述べた部分を引用して終わりにするわ。

 私がこの文章を書いている時点で、西洋ではこんな議論が交わされている。原理主義者たちとの戦いに必要な介入的な製作は、文明的な西洋の自由の概念を損なうだろうか?
 言い換えれば、民主主義(その定義から多数派)は、敵に寛容であっていいのか? 最大の疑問はこうだ。「綱領で言論の自由を否定している政党には、言論の自由を認めないべきか?」。もう一歩進めるとこうなる。「寛容を掲げる社会は、不寛容に対して不寛容であるべきか?」
 実際、厳密な論理の生みの親であるクルト・ゲーデルは、帰化審査を受けていたとき、アメリカ合衆国憲法にこれと同じ矛盾を見つけた。伝説によると、ゲーデルはそのことで判事と言いあいになり、証人として付き添っていたアインシュタインがなんとかその場を丸く収めた。科学哲学者のカール・ポパーも、民主主義制度のなかに同じ矛盾を見つけた。
 前に、「懐疑主義に対して懐疑的」であるべきかと訊いてくる詭弁屋たちの話をしたことがある。私は「反証を反証できるか?」と訊ねられたとき、ポパーと同じような対応を取った。無言でその場を立ち去ったのだ。
 少数決原理を使えば、こうした疑問に答えられる。間違いなく、不寛容な少数派が民主主義を操り、破壊する危険性はある。やがては、きっと私たちの世界を破壊するだろう。
 だから、一部の不寛容な少数派に対しては、徹底的に不寛容であるべきだ。単純に、ヤツらは白銀律を侵している。ほかの人々の信仰の自由まで否定する不寛容なサラフィー主義と対峙するときに、”アメリカの価値観”やら”西洋の原則”を持ち出してくるなんてバカげている。西洋は今、自殺をしようとしているも同然なのだ。

ナシーム・ニコラス・タレブ(著), 望月衛(訳), 千葉敏生(訳)『身銭を切れ』ダイヤモンド社(2019), Kindle版.

内容に反論・批判するのではなく、表現自体の排除を要求するなら、それはほかの人々の表現の自由を否定する論よ。そういった論に与するわけにはいかないし、逆にそのルールでやるしかないなら、私はエンカレッジ・カルチャーを放棄して、最も強硬な報復派の一人になるでしょう。

当然、そんなことはしたくないわ。だから、お互いの発表の場を守るという一線は、どの思想に属するかに関わらず、超えないようにしましょう。
フェミニストの言論に反論・批判はしても、存在の排除までは要求しない。

排除を要求する人たちに関しては、当然、自分たちが排除を要求される覚悟があるものと見なすわ。これは自由戦士、フェミニストの両方に言っているから間違えないでね!

じゃあ、この記事の内容を簡潔にまとめるわね。

【本記事のまとめ】
・ゾーニングのような自主規制は、決して安心安全なものではない。

・法令的規制よりも自主規制のほうがハイリスクになる面がある。(恣意性・不透明性)

・自主規制における「自主」性の保持は、慎重に見極める必要がある。(国家権力の間接的介入、実質的な表現の自由の減少)

・民間企業や民間団体の自主規制だから口出し無用という論は成立しない。むしろ監視し批判していくことが「表現の自由」の理念・主旨に適う。

・「公共の場」全体を巻き込む提言には、科学的・法学的な根拠が求められて当然であり、理性なき「クレーマー合戦」を避けるには、そうでなければならない。

・特に表現に対して、反論・批判ではなく排除を要求する場合、それは「表現の自由」の否定であり、そのような一線を超えた主張については不寛容に対応する。

以上!

今回は内容的に、自由戦士さんたちからも異論・反論はあることでしょう。そうした活発な相互批判は「表現の自由」的にも歓迎すべきところで、どしどし発言してね!(最近リプライが増えているから、お返事ができるとは限らないのだけど……。出来るだけ頑張るわね。)

あとはいつものお礼メッセージ&投げ銭エリアよ。資料代と作業費にあてさせてもらうのだわ!
よろしければ記事のスキ&シェア、そしてTwitterのフォローをお願いしたいわ。(ぶっちゃけフォロワー数火力が低いと、どうしても無視されるから悔しい思いをしているのよ……。)


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