ゆっくりしていってね!!!!
私は東方Projectとは無関係かつ独立に存在する不思議なゆっくりよ!
さて。ちょっと前のお話になっちゃうけど、「広く表現の自由を守るオタク連合」さん、通称・新橋九段さんとレスバになったわ。
まあレスバ自体は、私もけっこう口汚い事を言っちゃったからおくとして、新橋さんからゲームに悪い影響があると指摘している本があると、親切にもご紹介いただいたわ。
なるほどね。お教えいただきありがとう!
対立する側の根拠も知っておく必要があるものね。これね!
著者はカレン・E・ディル-シャックルフォードさん。
彼女は、「表現に悪影響はある!」とする論文をむやみに……じゃない、熱心に出版し続けていることで有名なアンダーソンさんの研究室のご出身みたい。
あらあら、それは期待できそうね――では。
ほら、買ったわよ?
カレンさんのことは、新橋さんの仰るとおり、私も存じ上げなかったのだわ。
ただ、アンダーソンさんの方は有名だし、さすがに知ってたわよ!
たしか2005年に、アメリカで表現規制に関わる州法を成立させるにあたって、特に主要な根拠資料(論文)を提供した研究者よね。そして表現規制の州法が実際に成立したのは、カリフォルニア州、ミシガン州、イリノイ州の3つ。
そんなアンダーソンさんの論文は、私も以下のものくらいは読んでいるわね。
残念ながら、裁判所に提出されたアンダーソンさんの論文については、いずれも「あくまで相関関係を示したに過ぎず、因果関係は示せていない。科学的根拠不足」と判示されて、州法はぜんぶ撤廃されたけど。
要はそういう人の弟子ね――は、悪意のある紹介の仕方だけど、ぶっちゃけご紹介いただいた本、『フィクションが現実になるとき』の科学的議論の水準が低すぎて、これくらい言いたくなるのだわ。
『フィクションがフィクションに終わるとき』とでも改題すべきよ。
まあ、もったいぶらずに結論から言いましょう。この本のダメな所を列挙しておくわね。
性犯罪や暴力犯罪に関する統計データの時系列推移については、ごく一例を示すと、ポルノの流通量と強姦事件の発生率を比較した次の図があるわね。
Ferguson and Hartley (2009)より
この図が掲載されている論文については、以前に私に素晴らしいご批判をくださったuncorrelatedさんが正確に書いてくださっているから、引用させて頂くわね。
もちろん、メディアの影響を論じる本が全て・必ず考察すべきだとは言わないけれど(主旨ではないかもしれないし)、事実関係については頭に入れておきたいわね。
それにしても、他の問題点も含め、こんな本、よく自信を持って出したわね……。
これだと、表現による影響についての科学的見解が、少なくとも学術的には論争をほとんど含んでいないかのように読者をミスリードしてしまうでしょう。
私はね、少しは期待していたのよ?
例えば、ミルトン・ダイアモンドや、C・J・ファーガソン、ローレンス・カトナー、シェリル・K・オルソン、エミリー・メラーといった研究者さんたちは、
「暴力的ないし性的な表現による影響ついて、一部の研究者(例:今回のカレンさんやその師匠のアンダーソンさんなど)が行った実験手法とその結果によっては、彼らが結論しているような影響の存在は支持されない。なぜなら……」
――と、反対意見を取り上げて、「なぜ自分たちの研究結果のほうが妥当か」「なぜ他の研究は妥当でないか」を論じているわ。新橋さんはきっとご存知よね? 心理学で博士号をお持ちだと伺っているのだわ。
最終的にどちらが正しいかはともかく、こうして比較して「こっちが正しい!」と言える根拠・理由を述べるのは、いわば最低限のマナーじゃないかしら?
いえ。マナーというのは適切ではないわね。
そもそも、ちゃんと比較論をやってくれないと、どっちが正しいのか読者には伝わらないじゃない。
普通、反対意見の研究者たちも、同じように比較に基づいて論じていると思うじゃない? それがその本だと予想したのだわ。
科学的な本って、「ここまでは大体分かっている。ここからは仮説がいくつかあり、決着を見ていない」という書き方をするでしょう。
結論としては、この本は違ったけど。
私としては、表現の影響に関する一般書籍なら、ハーバード大医学部が実施した大規模調査をまとめた、こちらの本を断然おすすめするわね!
こちらの本では、きちんとアンダーソンさんを始めとした「強い悪影響があるとする研究者」の論文をいくつも取り上げているし、そのうえで、それらがなぜ妥当でないと考えられるのかも当然、誠実に説明されているわ。
この一点だけでも――私が「自由戦士」的な思想の持ち主であるかどうかに関わらず――科学的議論の水準として絶対的に上位よ。
ちなみに、2つの本の"原著の"出版年を考えると、
2016年出版の『フィクションが現実になるとき』(参考文献リストを見るに2014年の論文までは記載がある)が、2008年出版の『ゲームと犯罪と子どもたち』の存在を無視してるのは、「奇妙」を通り越して「不正」のレベルだと感じるわ。
さて。
今回は、『フィクションが現実になるとき』と『ゲームと犯罪と子どもたち』、および新橋さんのブログにある書評『フィクションが現実となるとき 日常生活にひそむメディアの影響と心理』などを題材にしつつ、
【表現による影響】とは?
をテーマとして述べていくわね!
それじゃあ――ゆっくりしていってね!
「悪影響」ってどこから? あなたは八つ当たりから
新橋さんは上記のブログ記事で、「心理学の常識は、ゲームに悪影響はある、ということです」と自信たっぷりに述べていらっしゃるけど、フツーに考えて悪影響っていったら程度問題よね。
彼が自由戦士と揶揄する人たちが言う「表現に悪影響はない」なんて、いわば誇張表現であって、まさか「どんな表現物に接しても、まったく感情を動かさず行動も変わらず、あたかも"無我の境地"めいた状態でいられる」と主張している訳ではないでしょう。
私だって、マリオカートをプレイしている時、ゴール手前で甲羅を3連発で食らって1位から10位まで転落したら、さすがにキレるし、もしかしたらコントローラーくらい投げるかもしれないわ。
その時、脈拍が速くなり、血圧が上昇し、また心理的には共感能力が落ちていると推察されるわ。(別にこんなの覚えなくていいけど、心理学系の界隈では「脱感作」という大げさな名称で知られる現象の一つ。)
じっさい、「うがー!」となっている最中に、誰かから「ねえねえ、部屋の掃除を手伝ってよ」と用事を頼まれた時、それを断ってしまう確率は、平常時に比べて有意に高まるくらいはあり得るでしょう。というよりも経験もある。ええ、認めましょう。
これが「マリオカートをプレイすることによる悪影響」と言えばその通り。
でもこれ、仕事で集中している時に電話がかかってきたり、スマホを落っことして画面にヒビを入れてしまったりした時でも起きる現象よね。それをいちいち「電話がかかってくることによる悪影響」「スマホを落とすことによる(心理的)悪影響」って言う?
普段はいちいち言われないような些細なストレス現象があえて声高に叫ばれる時、普通の人は「この人は、まず悪影響を有無のレベルで認めさせてから、表現を規制すべきだと言うつもりなんじゃないか……?」と政治的意図を疑うでしょう。
とりわけ、『フィクションが現実になるとき』のような、論文として出版されている数々の異論反論をひた隠しにし、心理学実験の結果を現実世界の挙動にあてはめる合理的根拠も乏しい粗雑な書籍を、押し付けがましく読まされた時は、疑心暗鬼になっても仕方ない。
私も細々とした説明をしてあげるのが面倒な時は、「(あなたが言うような)悪影響はない」の一言で済ませるわ。
もちろん、やや厳密に言い直せば、「あなたが行った実験結果では、あなたが言うとおりの悪影響が現実にも作用しているのだと実証されたとは言えない」「その研究では、相関関係は示せていても、因果関係までは示せていない」といった形になるでしょうね。
これを発言の表層だけ見て、
「あ~! 悪影響は"ない"って言った~! 必ずしもゼロではないことを誰しも否定できはしないのに~!!」
と嬉しそうに騒がれても……。
なんか……「がんばってね」って、感じよ……。
新橋さんはブログ記事で、以下のように「悪影響がないなんて、非現実的な妄想だ」という旨の主張をされているわよね。
まさに『フィクションが現実になるとき』でカレンさんがやっている、仮想論敵の主張を驚異的に脆弱化してから叩く論法だから、内容紹介としては正しいわね。
そして「ものにあたって壊すようなら明らかに悪影響」なら本当にマリオカートでキレちゃった時程度でいいのね。マリオカート、CERO A(全年齢)だけど大丈夫?
――でも、そんな言葉の揚げ足取りをお互いにやっても仕方なくて。
問題は、結局のところ、ゾーニング等の自主規制も含めて「規制するほどの悪影響があるのか」「悪影響があるとして、憲法で規定された『表現の自由』を制約するほどか」であって、「悪影響はない」という言葉をめぐる言い争いは、議論ごっこに過ぎないわ。
まあTwitterレスバトルの世界だとありがちだし、私にも大いに身に覚えがあることだから、そう責められはしないけれど。(過去ツイート漁られたら、「お前もやったことあるじゃないか!」は確実に言われるわね。今後気をつけますとしか言いようがないわ。)
「巧みにたとえている」のではなく、信頼性のフリーライド
新橋さんは次のようにも述べているわ。
確かに『フィクションが現実になるとき』では、食品の摂取にたとえていたわね。
それだけでなく、こうも述べていたわ。
まあ「たとえ」として本質は食品の摂取と同じだから、これでもいいでしょう。
でも、実は『ゲームと犯罪と子どもたち』の方でも同じ文献を取り上げ、かなり紙幅を割いて批判しているのだわ。
ちなみにもう一度言うけど、『ゲームと犯罪と子どもたち』の方が8年も早く出版されてるからね?
8年も早く出版されてるからね?
その上で、ちょっと長くて細かいけれど、引用するわ。(だるかったら完全に全部読む必要はないわよ。「問題点」の最初の3つくらいで十分な気もするし。強調太字以外は読み飛ばすとかでもOK。)
以下の参考文献のうち[13]は、上の参考文献の[19]と同じよ。
8年も前にこれだけ指摘されていたら、言い訳くらい考えておきなさいよ……。
特に重要な問題点を改めてまとめると、
こんな感じかしら? さすがハーバード大医学部――って、ハーバード大でなくても医学部でなくても、「当たり前よね」ってレベルだけど。
かなり怪しいところのある表現による影響を、信頼性のある医学研究になぞらえて語るのは、「巧みなたとえ」というより、信頼性のタダ乗り(フリーライド)だと思うのだわ。
「置き論破」を無視する本
『フィクションが現実になるとき』と『ゲームと犯罪と子どもたち』を同時に読むととても面白くて、前者がこの手の「8年越しの置き論破」を食らいまくってるのよね。
具体的には、
他にもいくつか(メタ分析論文の妥当性とか)あるんだけど、とりあえずこんなものかしら。
要は、『フィクションが現実になるとき』の第4章と、『ゲームと犯罪と子どもたち』の第3章を同時に読むと本当にめちゃくちゃ楽しいから強く推奨するわ。これこそメディア・リテラシーって感じ。
ちなみに、カレンさんもメディア・リテラシーの大切さを訴えているわ。
ご高説、ゆっくりありがとう!
確かに「メディア・リテラシーの能力が高まった」わよ!
カレンさんは不都合から目をそらす
じゃあ、本文での指摘は最後の1つにするわね。
引用が多いとはいえ、ここまでで約1万字。読者さんの皆様もお疲れよね。
では、そんな疲れも吹っ飛ぶネタでいったん締めくくりましょう。
カレンさんは、ゲーム規制の州法が違憲判決が出た時のことを、次のように述懐しているわ。(カレンさんのお師匠のアンダーソンさんの論文が州法の成立根拠として使われていたのよ。)
へえ。カリフォルニア州のゲーム規制法の件ではそうだったの?
でもそれさあ、2005年のイリノイ州の同じゲーム規制法で示された違憲判決の件から目を逸してない?
この裁判では、研究者としてアンダーソンさんとクローネンバーガーさんが「ゲーム規制法を正当化できるくらいに科学的根拠はある!」と自分たちの論文をもとに主張し、それに対して、やはり研究者であるゴールドスタインさんとウィリアムズさん、加えてヌスバウムさんが「いやそれらは科学的妥当性に欠いている」と反論する形で争われたわ。
つまり、
アンダーソン&クローネンバーガー(被告側の擁護者)
vs.
ゴールドスタイン&ウィリアムズ&ヌスバウム(原告側の擁護者)
って対戦カードよ!
それを受けて、最終的にマシュー・F・ケネリー判事が下した結論を見てみましょう。
(孫引きになっちゃうけど、私の適当翻訳よりプロの翻訳のほうがいいでしょうから、『ゲームと犯罪と子どもたち』から引用するわね。)
ケネリー判事さん、最初からかなりアクセル踏んでるわね……。
つまり、暴力的なゲームのせいで暴力的な人になるのではなく、暴力的な人が暴力的なゲームを好みやすいという逆因果の可能性が十分あり、それは「当該分野の研究者たち」にも支持されている話だってことね。
続きにいきましょう。
「顕著であるという証拠はない」は、私がマリオカートの話で述べたように、程度問題であって、かつ、その程度がヤバイとは立証できてないという指摘ね。全くその通りなのだわ。
そして、長期的影響も裏付けなしと。
ケネリー判事は、イリノイ州議会が「ゲーム規制州法の成立にあたって都合の悪い結果を出した学術論文を取り上げていなかった」という「いいとこ取り」の問題をきっちり指摘していらっしゃるわね。
つまり、きちんと反対論文も取り上げて「いや私たちの見解の方が妥当性が高いのだ!」と論証しているならともかく、それをやってないのは「ずる」じゃない? 説得力下がるわねぇ、ということよ。
カレンさんの著書『フィクションが現実になるとき』もこの点は全く同じだから、「いいとこ取りをすればいい。都合の悪い結果は無視がいちばん!」というのは表現規制派の人たち全般の習性なのかしら?
さらに、ケネリー判事のお話は、根拠資料とされたfMRIによる脳機能イメージングに基づき、悪影響の存在を示せたと言う論文にも及ぶわ。
それにしても、ケネリー判事さん、かなりボロクソに言うタイプね……。
ええと……。
いや言い過ぎじゃない!? そこまで言って大丈夫!?
アンダーソンさん、コレどんな気持ちで聞いてたの!?
あちらの国の判事さんは、なかなかスッゲェ性格してるわね……。
加えて豊かな学識と批判眼をお持ちだと推察されるわ。
うらやましい限りよ!(日本にスカウトできないかしら? 年収50億円くらい払ってもいいから。)
えーっと、なんだっけ。
……そうそう、思い出した。カレンさんの話をしていたのよね。
もういっぺん引用しなおすわ。
カリフォルニア州の件については、仮にそうだったとして、でもなんかアレじゃない? 2005年のイリノイ州の件でもう十分すぎるくらい問題点を指摘したから、大して変化もない案件で同じ指摘をやり直すのがめんどくさかったんじゃない? ――ま、これは適当な憶測だけど。
もちろん、裁判所の判決が、科学的見解の妥当性を決めるものとは考えないわ。ただ、指摘されている具体的内容に関しては、研究者としてあるべき誠実性に照らして、「回答する必要がある」と言うに十分な質でしょう。
ケネリー判事の判断が間違っている可能性はある。でも、そうならそうで、「こういう理由で間違っています」と述べるべきよ。ざっくり「無かったこと」にして、まるでずっと被害者だったかように記述するのは、"ミスリーディング"ではないの?
もしカレンさんが、「2005年の時点では確かに判事を説得しうるほどの科学的根拠に欠けていたかもしれない。しかし、心理学の世界も進歩している。新しく得られた知見によれば、当時の主張も科学的に正当化できるのだ」と考えるなら、その根拠と理屈を書籍に書いておくべきよ。書き漏らしだとしたら、漏らしすぎ。だって裁判自体が2005年の出来事でしょ。原著2016年出版で書けないってことはないのだわ。
なるほど、私は、こういう批判に使える知識がない状態で、本書『フィクションが現実になるとき』を読むのは、知性に著しい悪影響があることを認めるわ。信じたら恥をかくし、判断を間違う。
メディア・リテラシーが試されるのだわ!
――今回の記事は以上! 読んでくださってゆっくりありがとう!
あとは、いつものお礼メッセージだけの有料エリア――にしようと思ってたけど、今回はゆっくりしたオマケさんをご用意させて頂いたわ。
内容としては、制作舞台裏のお話や『フィクションが現実になるとき』が"置き論破"されている他の部分の紹介、及びそれに関する私見なんかが含まれているわ。
あ、別に読まなくても支障ないわよ(オマケの分、いつもよりお高いのだわ)。本書の批判に関しては、これだけ言っておけば十分でしょう。
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開け―――ゲート・オブ・バビロン!