大好きな後藤ドクター
最初のクラブとはいうのは特別なもの
昨日の記憶を忘れても、青春時代の記憶は年老いても残る
SNSで80歳のおばぁちゃんのインタビューで
「26歳ぐらいから時間が止まってる」
ってコメントに超共感
あの美しい光景は今なお、心に鮮明に残ってる
だから川崎フロンターレ時代の思い出や
関わった人というのは一層大切に思えてくる。
(当然エスパルスボーフムケルンスウォンアルビレックス町田も超プレシャス)
“初恋は永遠”みたいな感じ
成功のチャンス
そんななか
入団した僕の1番の高い壁は
我那覇和樹だった。
フロンターレ自体も当時は絶好調で
2005年も昇格1年目で上位に食い込み、
入団した2006年も我那覇ジュニは暴れ回ってた
サブには黒津勝
入るこむ隙はなかったけど
関塚監督マメに僕を途中から経験を積ませてくれてたとはつゆ知れず、
ネガティブ鄭大世は
スタメンじゃないことにいつもうちひしがれてた
僕はライバルとは喋りたくないタイプだったから、いつも周りにクロさんとガナさんと「かたいかたい!」っていじられてた。
(”かたい“は気まずいという意味)
そんな中
我那覇和樹ドーピング疑惑
当然深くは言及しないが、大激震が走った
それがACLホーム城南一和戦の朝で、関塚隆監督から電話が来て
「テセ今日スタメンだから」
と告げられた
その試合でジュニーニョのアシスト二つで2ゴールを決めて一気にスターダムを駆け上がったわけだが、
その栄光の裏には、こんなにも暗い事件があった。
当事者である我那覇和樹に注目されがちだが
管理責任のドクターやトレーナーにも矛先が向かう
その中でもクラブで一番責任を問われるのはドクターであることは想像に難くない
ドクターは冒頭の写真にもある後藤秀隆ドクターだった。
当時の等々力競技場はロッカールームの奥にトレーナールームやシャワールームがあって
その一番奥のデスクにいつも後藤ドクターがいた。
後藤先生は超真面目で寡黙でプライベートの話とかあまりしない。
でもサッカーが大好きで、スタッフ同士でサッカーしたら性格変わったように指示を出したり超熱くなるタイプだったのが好感を持てた。
そんな先生にとって川崎フロンターレというプロクラブで専属ドクターをできることがどれだけ嬉しいことだろうか
その日、先生が奥のデスクに何かに取り憑かれ
突っ伏すように病的に映るほどの形相で紙に何かを書いていた
当時はまだ世間知らずだったので状況把握が僕にはうまくできなかったけど、
なんとなく、ドーピングの件で大変なんだろうなーぐらいにしか思ってなかった。
他の人たちも、腫れ物を避けるように
誰も声をかけてなかった
ってかかけれるはずもなかった
それぐらい殺伐としてた
それに、そのおかげでスタメンチャンスをもらった僕が軽はずみに声をかけれない、と思った
今となれば、先生にとってどれだけ修羅場だったかを想像しただけでも身の毛がよだつ
そのときに「先生大丈夫。僕ら全員先生の味方だから」って声をかけられたなかったことを
今でもずっと後悔してる。
その後、責任を感じてなのか詳しくはわからないけど、ドクターの座を退いた。
あれほど天職であるプロクラブのドクターを
その後、僕も海外移籍のためにフロンターレを離れ、
外からしか試合を見れなくなったけど、
ある日試合を映像で見てたら、元気にグランドを走ってる後藤先生の姿が確認された。
「あれ?先生フロンターれ戻ったんだ!!!」
ってめっちゃ嬉しかったことを今でも覚えてる
調べたら無事2012年から復帰して
元気にやってるみたいで
めでたしめでたし。
今日も踵が痛すぎて抗炎症剤貰うために独立したGOTOクリニックにお邪魔したけど、
クリニックに入ったら小さい音で「テーセーゲットゴール🎵」のチャントを永遠リピートしてくれてて、当時を思い出してジーンとした。
左ハムも軽く痛めてたから、足の治療もしてもらいながら、心も治療してもらったGOTOクリニックでした。
多くの失敗と修羅場を経験して感じるのは
「辛い思い出ほど蜜の味」
人生に深く根が張る出来事なんだと思う。
時間が経てば全て笑い話。
あー先生好きだなー
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