見出し画像

今の自分も後の自分も後悔しないためには

 「今この瞬間」と「後ある瞬間」を天秤にかけて、何かを選択しようとする(選択しない)、決定しようとする(決定しない)というのはそれすなわちどちらにせよ「この先どれだけ生きているかどうかわからないとする視点」と「この先もある程度は生きているであろうとする視点」のいずれかを確実なもの、あるいは少なくとも他方よりは蓋然性の高いものであると断定しているからこそ可能な選択・決定ということにはならないか、ということに気づく。

 「今のこのタイミング」しかないとしてある人と会おうとする、あるいは「この先のタイミング」があるとしてその人に会うことを先送りする。このような意思や決断を抱く場合とは、自分という人間と出会うその相手という人間の両者ににおけるそれぞれの「今」と「後」の関係が、その両者間の関係性において交差するため、より何を根拠にその約束をする、している、できているのか(その逆も然り)、わからない。

 「この時しかないので」という理屈によって今できるかできないかがすべてだというふうに捉える、あるいは「いつか時が訪れれば」としてその際にできているかできていないかが重要だというふうな見通しを持っていたとしても、そのいずれの視点であっても、ある計画や意志を固めるということ自体が、前者においては自分という人間の不完全性、後者においては自分であろう人間との不一致性と直接関係しているため、やはりどちらにせよそれは、何を根拠にその「後」より「今」、もしくは「今」より「後」とすることができると断定できるのか、わかり得ない。

 たとえ「今この瞬間」しかないと、しかあり得ないとして、何かしらの選択や決定をした際には、その結果や成果を知ることができる「瞬間」とは既に「今この」と名指したその瞬間ではなくなっているため「今この瞬間」で選択・決定したとしてもその事態が常に手元からこぼれ落ちていく。
 かりに「後ある瞬間」があると、この先があるとしているからこそ何らかの選択や決定をしているとした場合、その思い描く事態が起こるとされている「瞬間」がどこかにあり得ると言うための根拠とはその「後ある」と名指したその瞬間に至るまではどこを探してもない。

 しかし、であれば、たとえ「今この瞬間」しかあり得ないとして結局ある一定期間生き残ってしまうこともあり得て、またかりに「後ある瞬間」があり得ると見越してそこまで辿り着くことができないこともあり得るだろう。
一方では「今」しかないという理屈を根拠に、他方では「後」はあるという理屈を根拠に、それらのどちらにしか則ってしか、もし私達が選択・決定することができないのだとすれば、たとえ「今この瞬間」を大切にすることが功を奏したとしても、またかりに「後ある瞬間」が華やかなものになったとしても、それをいかにどこまで計画していたとしてもそれは必然ではなく、偶然ではありませんか。

 何かを学ぶに際、働くという行為、趣味と呼ぶような取り組み、のように卑近で例でもそのこととは、本当は何の根拠もないにもかかわらず「この後」「この先」があるとして何かを成就させるための「今」を選択することもあれば、「この今」ある好奇心や意欲のみが確実なものとして「後」「先」をそれほど問題にしないケースもあるでしょう。

 またそのこととは、常に意識を向けているわけではないという意味では浮世的で、しかし自身の実存に関わり得るという意味では最も現実的な、より大きな話にはなるものの、私達が人生と呼ぶこの何事かのみですべてが完結するであろうという根拠のない通念に則って物事を進めていること、換言すれば現行生存している人の内誰もがこの人生なるものの後の事態がどのようになっているかわかっているはずもないのにもかかわらず、先のこと・後のことを何の根拠もなしに「ある」か「ない」かというふうに断定して、選択や決定をしている、あるいはしていないという事態と、抽象度は異なれど、何ら変わらない。

 しかし、そのような数々の具体的な選択や決定、そしてある種究極的で抽象度の高い解釈や断定について、どちらにしても、一方ではなく他方、あっちではなくこちらであると無根拠に決め込んでしまうことで本質的に事態が解決するわけではないということから目を逸らさないことを、ここでは重要視したい。
 そのことを最後に今一度、確認してみたい。

 ここまで連ねてきた話とは、どれだけ生きることができるか、どれぐらい先まで生き続けているか「わからない、にもかかわらず」、「今この瞬間」を採るか、それとも「後ある瞬間」か、というものであった。
 そしてどちらにしても、その選択・決定とは「無根拠」なものであるということに気づく。

 しかしそのことを自覚することとは、自らの認識を次元を移動させることを可能にする。
 そして、その認識の変動させることによって、どれだけ生きることができるか、どれぐらい先まで生き続けているかということを自ら「わからないとわかっている」という前提を準備することを可能にする。
 しかしその認識とは、つまり、どれだけでも生きることができる、これから先もある程度は生きているだろうと「わからないとわかる」こととは、それが「今この瞬間」あろうと「後ある瞬間」であろうと、どちらにしてもわからない(わからないとわかっている)のだから、結局どちらかの選択・決定をする他ないのだという方向に循環(逆流)してしまうことに連なり得るものでもある。

 しかし、ここではそちらに流れてしまうのではなく、更にもう一段階自らの認識の次元を移動させたい。そしてそのことについていかに考え、実践することができるのかということがこの話のキモの部分なのだ。
 であるからこの話とは、何を選択・決定することがより後悔することがなさそうかという次元に留まるのではない。留まるのではなく、考え続ける、実践し続けるものであり、ここで模索しようとしているのは、「今この瞬間」と「後ある瞬間」との関係とは二者択一的でしかあり得ないという話ではなく、かりにある程度の期間生き続けることができたとしても、またたとえにそれほどの期間生きるることができなかったとしても、いずれの顛末だったとしても、後悔しない選択・決定とは何であるかが重要でありその両者を共に満たす意志あるいは決断とは可能であるか、ということであった。
 それはすなわち、誰にもわからないことを根拠にして何かを決めるのではない(わからないことをどうして根拠にできるというのか)、一定の期間があるにしてもないにしてもどちらであっても構わないように(後から振り返った時そのどちらであったとしても問題ないように)根拠がない前提を前提そのものとしてしまい、後悔しないための選択・決定をするということ。
換言すれば「根拠がない」ということそれ自体を「根拠」とし、選択や決定の「前提」としてしまう。どっちに転ぶかわからないことそれ自体(すなわち「無根拠」さそれ自体)を「前提」とすることで、「今この瞬間」も「後ある瞬間」もを共に大切にすることのできる選択可能性・決定可能性を模索することが重要であり、またそれは可能であるということまで、自らの認識を変動させることであった。

 誰にもわからないことを前提とする、どこまでいっても無根拠なことを根拠とするから「今」か「後」のようなトレードオフになり、場合によっては後悔するのだ。
であれば、前提がわからないということそのものを前提として、無根拠であるということそれ自体を根拠にして、何をどうすれば「今の自分」も「後の自分」も共に後悔しなさそうな選択・決定を考え得るのか、ということを考えようとするのが、少なくとも「自分」にできる選択・決定でしかなかった。

 「今」しかないということも無根拠、「後」があるかもしれないということも無根拠、であればそれが「今」しかないという場合であっても「先」があるという場合であっても、そのどちらもを包摂しながらもしかし単なる折衷案ではない、無根拠であることを前提とした選択・決定をする営為とは、無根拠であるにもかかわらず無自覚に何かを恣意的に根拠として「今この瞬間」と「後ある瞬間」を天秤にかけて他を斥け特定の何かを選択・決定する行為とは、一線を画したものになる。


 そしてそのように選択・決定しようとする営為とは、自分にとっての哲学的執筆とは何であるかにそのまま符合する。
ここまで話を連ねてきたような事例、それはつまり一方をある理屈のもと採ったとしてもそれでは(それだけでは)他方の説明がつかない、あるいは納得はいくものにはならないようなことを常に巡るものが「哲学的」と留意するものであって、その営為とはどこまでも懐疑が付き纏い、すなわちそれはどこまでも断定するということを許さないという点で、常にアンチノミーに陥るような話においていかにオルタナティブとなるような、換言すれば第3の項なるものを模索することができるか、そして開示することができるか、というものである。
そのようにすることの狙いとは、二者択一になりかねない局面において両者の言い分や理屈についても理解を示そうとする態度で、しかし同時に片方に偏りすぎることない姿勢で、矛盾を矛盾なく矛盾のまま乗り越えようとすることである。
そしてそれはそのまま、哲学をするとは考えることを続けるということと同義であることを体現することであり、考えることを続けず何処かで何かしらの考えに留まるのだとすればそれは哲学ではなく、思想になる(なってしまう)。
 その点では先程哲学的とは言ったものの、このように文字に転化している時点でこれは思想的に留まるのかもしれない、しかしいずれにせよ、このようにして生きることしかできない人生での反省を介して得られた洞察が、どなたかにとっての何事かについてを、いかなるようにであっても考えよう、考え続けようとするための契機として機能するのだとすれば、こうして書きのこすことに意味があるのかもしれないとも思い、少なくとも自分にとっては意義のあることだと思える。
そしてその意味では、この執筆が「哲学」であるのか「思想」であるのかという点は、気にしなければならないものではなくなる、としている。