書くことを通じて思考することについて

 書くことで考えることは重要である。人間の脳内のリソースは単位時間において有限であるから、複雑なことは書くことにおいて考えた方がよい。言葉や現実性にも耐用年数という変数を導入した方がよい。教授曰く、ラテン語は誰の言葉でもないが故にほとんど変化せず、ゆえにこそ学術用語として有用である。1か月経ってみると何のことやらわからない言葉はそこでおしまいである。しかし同時に、現実性において使い捨ての言葉という発想もできる。すなわち、思考を進展させることを目的化する局面において、乗り捨てるために乗る買い替えの言葉である。思考の展開を書くというのは正しいが、同時に書いたことが思考を展開させることも正しい。人類の自己形成は明らかに粘土板からパピルスや紙やパソコンなどの記録媒体による過剰代替とともにあった。どこまでもどこまでも高く伸びていくことに飽きたくない。しかしこれはまたかの理性の登攀ではないか?いや、だがしかしこれもまた一興だとすれば、理性の際限なき登攀についても考え直さなければならない。というよりも、私が当てをつけているところによると既にその仕事はとうに遂行されている。だから一応、例えば踏み慣らされた山道でも頂上を目指すように、その眺望を切望するのである。
 さて……と、このように、比較的正確に先に考えた思考に戻ることができることが、書くことにおいて考えるということの利点の一つである。さて、では、際限なき思考運動のさなかで物を書くということの意義はなんだろうか。…教授が、芸術家の制作を階段の踊り場に喩えていたことが思い出される。私にとっての感覚として、書く行為に近しいのは、人と対話することである。それは恐らく、思考運動の弛緩を表示している。こうだ、ああだ、こうじゃないか、ああじゃないか…、こうじゃないかと言っている時、発話者は他者にフレームを供給している。

アンセルモ おおルチアンよ、昨日われわれが密儀の成り立ちを問題にしたとき、真理と美とについて君が主張したことを、もう一度われわれに話してくれないか。
ルチアン 僕の考えはこうだったのだ。多くの作品には最高の真理が存在するだろうが、だからといってそれらの作品に美という褒賞をも与えてよいわけではないというのだった。
アンセルモ ところがアレクサンダーよ、君はそれと反対に、真理さえあればそれで芸術の要求はすべて充たされ、ただ真理によってのみ作品は本当に美しくなると断言したのだ。
アレクサンダー 僕はそう主張した。
アンセルモ この話題をもう一度とり上げて、別れの時が来てしまって未解決のままになった論争にこれから決着をつけたらどうだろう。というのは、別にはっきり約束したわけではないが、やはり暗黙の一致があったからこそ、幸いにも再びここに落ち合ったのだから。
ルチアン われわれが話題の流れの中へ帰れるような対話なら、何度繰り返されても結構だ。
アレクサンダー 一緒に議論する場合の競争心はますます深く問題の核心へ迫って行くが、そういう議論はそれとなく起り、ゆっくり進展し、最後に大きく膨らんで、対話に加わっている人人の心を奪い、皆を悦びで充たすものだ。

(『ブルーノ』,シェリング)

 これは対話篇であるが、逆説的にここに対話篇が思考運動に不向きな理由が見受けられる。そして実際の対話も、そのほとんどは思考運動の進展のためにではなく息抜きと陶酔のために行われるべきものである。高名なプラトンの対話篇の場合は、その多くがソクラテスが論敵や弟子を相手取って対話し、最終的にアポリアで行き詰まる展開だが、あれはアポリアで完結しているのではなく未完であると考えるとわかりやすい。その点ではパイドン篇は成功例だと思う。基本的に、問いかけや批判を事とする者が議論をすれば、自ずから現実性への破壊的議論にならざるを得ない。建設的議論は閉鎖系の内部においては端的に建設的であるが、それが言説化したとたんに付帯的に暴力的議論となる。現実性とは想起の強度のマトリックスである。知が暴力性を有するためには必然的に偽悪醜ではなく真善美を自己主張しなければならない。だから、有限な存在者が無知であるかぎりにおいて、美は暴力的であり、善は暴力的であり、真は暴力的である。かりに全体が有機的連関である場合にあっては、暴力性の発動は当の連関の自傷行為である。だからかえって、全き無垢な非暴力は綺麗ごとである。というのは、常識の世界では自傷他害の恐れのある狂人は、多衆の自衛権によって端的に定立された機関によって粛々と監獄に送致されるということである。だから知的問題としては、他者危害の原則に潜む未だ被害なき過剰防衛にこそ焦点が当てられよう。
 話がずいぶん逸れてしまったし、書くことにおいて考えることもまた難しい。結論として言いたいことは「自己の暴力性を恐れず言い切れ」ということであるが、同時に半面、結論ではなく思考運動の過程こそが、自分のために書く、ということだろう、というものである。

2023年8月25日

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