てるととたけしのローカルコミュニケーション2:病み系、スキゾ、自閉、など。

たけし:決定的に言葉がすれ違うシーンは非常に多いけど、それは本当に言葉がすれ違っているのかな?

てると:違うようには思うよね。言葉じゃなくて、根本的に何かもっと深いところですれ違っている気はする。

たけし:そうだよね。その表れとして言葉がすれ違っていて、お互いがお互いを誤解して馬鹿にしあうような事態が生じるということが多いように思う。

てると:友達も根っこでは病的だと考えてみるほうがつらいよね。

たけし:そうだね。根っこでは病的だけど、それを上手に隠蔽して生きていると考える方が、自分自身への敗北感が湧くね。

てると:病的な部分が全面的に前面に出ている後輩がいるじゃん。あれは見てると本当に気持ち悪いよね。多分自分をより誇張して捻じ曲げた物真似芸人に見えるからなんだろうけど。

たけし:割と本気で消えていなくなってほしいんだ。だから、自分と経験が近くてもうまく処している友達は、どうしても大切な友達になるんだよね。

てると:そういう劣位の後輩みたいなのが劣位になってしまうのは、どうしても彼みたいなのは口だけ無限の可能性で、現実には自己洞察すらうまくしていない気がするからなんだよ。結局いつもの教授はどこまで行っても自己洞察をする人なんだよ。深い人ではある。きっと自己と引き比べて考えるから、浅い人と一緒にされるのが嫌いなんだろうね。

たけし:俺は確かに浅い人と一緒にされることは極度に嫌うね。但し、それを伝えるのが難しい。深さを伝えるためにも何かしらの「言葉」を獲得していなければ難しいものがある。

てると:そうだね。広い意味での「言葉」だね。そういえば、ネットの病みブームについて一言あるんだよね。

たけし:あの流行現象は結局、教授が言っていた「心の単純さ」そのものでしかないと思っていて、なにか深層にコミットしているわけではないと思ってるんだ。俺もネット長くていろいろ見てきたから、「またか」という感じにしかならない。コミュニケーションがコミュニケーションを反復的に産出するように、その円環がこの方向でフラフラ流れてるようにしか思えないんだよね。

てると:確かにね。明らかに文化というのは、超越論的に静止した自己同一的な心が楽しんでいるものではなくて、それに半強制的に巻き込まれて単純化しつつ進展するものだから、いわばまさに模倣的創造なんだよね。この言い回しも模倣だしね。

たけし:懐かしいね。俺は子供の頃からよく大人にふざけないでと言われ続けてきたほどには模倣が苦手だから、きっと文化にもあまり馴染めない方なんだろうと思ってる。だからその意味では、実は超越論的なタイプの人というのも、度合い的に成立してるんじゃないかなと思う。だからそういう人ほど、触れるものは古典であるほうがいいのではないかと思ってる。

てると:古典は今後も生き続ける蓋然性が圧倒的に高いからね。明白なこととして、古典は教授が言うところの「耐用年数」が設定からして違うからね。だから、最近の病み系ソングの耐用年数は、偶然的に短いというわけではなくて、むしろこんにち性の乗り捨てモノであるからこその良さがあるんでしょ?それはそれでいいと思うけど。

たけし:一番可哀想なのは、大人しく超越論的であればよくて、それに歴史的であればいいものを、あらぬ倒錯を起こして実証的な歴史の最新研究についていかないといけないという縛りプレイをしている人だろうね。それは往々にして文献学的な人にもみられるけど、苦しいと思うよ。

てると:じゃあどうすればいいんだろう?

たけし:やっぱりさっきの話の続きになるけど、耐用年数の長いもので自分で進み続けるということだろうね。スキゾ的でも半年しか持たないものばかりのスキゾだとこの場合あまり意味がないんだ。ただ、知識より経験を重んじた側面に着目した場合、公教育のデザインモデルはもう時代に合っていないようにしか思えない。当然最大公約数だから仕方ないんだけど。

てると:では、俺は何をすべきなのか。

たけし:今の局面としては人間の経験の機微の経験を作ることが一番だと思うよ。そこで外枠から人間を観察した書籍ではなくて、むしろ人間の経験そのものを読まなきゃいけないし、そういう経験で自己形成しないといけない。当然、社会階層や能力、その他諸々の要素によって人間の経験の仕組みの内実は、それが普遍的でなくて内実であればあるほど異なってくるから、ふわっと言えば「より善き」経験に触れてそうして自己制作しないといけない。そう考えると、もちろん経験はハビトゥスだね。

てると:そうだね。だから、カントの経験に近いような人、或いはクラシックを聴いているような人と関わりたいのか、そうでなければ数多に考えられるけど、例えばオートポイエーシスの経験をしているような人と関わりたいのか、なにかもっと面白いことをしている人と関わりたいのかという感性を大切にしないといけないように思うよね。当然その内部には、例えば教会の中にも多様な人格があるように、内部に多様性もある側面ではあるんだけど、そう考えるとドゥルーズでやりたい人が多いのは頷けることではあるよね。ただ最近ではドゥルーズを「スキゾ!スキゾ!」ではなくて、堅く読み解くような人が優勢になってる学界の状況らしいけど、何がしたいんだかわからんっていう。

たけし:創造ということがなぜ文化体系で優位に置かれているんだろうね。それが面白いんだろうか。ある意味、なんでもいいから新しくて面白いものを人間は求めるのか。そういうことなんだろうかね?

てると:難しいね。新奇性の面白さは重要な要素だと思うけど、俺はそれをアナロジーでありブリコラージュに求めてるから、いわばコピペやMADのようなブリコラ芸術、つまりあの陰謀論的世界観を構築するときのあの悦楽は、変え難いものがあるから、と考えると、そもそも純粋な創造なんて存在しないでしょう。だから、「私は自然から学ぶ」という『ダ・ヴィンチ・システム』に書かれてた言葉はかなり有意味に使えると思う。

たけし:それは決定的に重要だろうね。アナロジーはそういう類のものだから、つまり野性の思考は容易に分裂気質に結びつくから、芸術家の異常性というものとも容易に結びつくんだよ。あの「詩人狂人説」というやつね。だから現実性のフレーム問題でもそうだけど、文章も絵画もフレームの中でのことで、典型例がレポートの文字数制限だったり、MADの原曲だったり、陰謀論でも暴走しているようで、変な言い方だけど健全な陰謀論の段階ではある現実性のフレームを超え出ないところに迫真的な意味の連結の悦楽がある。そういうフレームを超えてしまったとき、つまり、なにか現実性、つまり現象、フェノメノンの外側を言い出したとき、人はその人のことを「イッちゃった」と評する。「事象そのものへ」ということと「実在そのものへ」ということは全く違うからね。

てると:そうすると現実性の際限なき拡大という「分裂症」も問題があるよね。この議論はもう古いけど、確かに重要なんだよ。ひどい寝不足の時にあらゆる音という音が有意味に感じられる時があるけど、あの異常体験はきっと分裂気味になってて、あれが寝不足という一時的な状態ではなくて恒常的な神経伝達物質の異常になってくると生活が破綻するんだろうね。

たけし:間違いなく、あまり言いたくない卑近な例なんだけど、分裂症に陥った人があたかもその現実性に比例するかのように身体的にも「外部」に飛び出していこうとする一時的傾向も、多分ね、際限なき拡大と関係しているはずなんだよ。だから結局野性の思考と言ったって「連中複合体」とか言ってどこまでも枠組みの中で実際にありそうで実際にそうであるような「陰謀論」のアナロジーを展開している時点でどこまでも健全でね。例えば俺の入院に関しても、結局10代の頃からのあの病棟にでも入れば一生甘えてられるっていう甘えがあったんであってね、そういう意味で自己批評するなら、監獄を母胎かなにかと勘違いしてたんだろうね。しかし、あの入院、三鷹は二度とごめんと思うけど、結局哲学科のショーペンハウアー好きの先輩と一緒に教授から貰ったチケット持って「天命反転住宅」に行くことになったからね。怖いんだよね、人生が有意味なんだよね。今流してる曲も。

てると:More One Night

たけし:だからどこまで行っても常識の世界ではこういうのを自閉的と言うんだよ。だから問題なんだよ。教授からも「オタク系」と言われるしね。

てると:同じもの食べて、同じ曲聴いて、同じことをして、土と眠ります。

たけし:甘いって幸せだよね

てると:だからダメなんだよ

たけし:どうすればいいと思う?

てると:わからん


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