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知識主義に壊された見えない世界

かつての日本ならば、見えない世界を使いこなせた人が沢山いたのに、どんどんそういう人は減ってしまいました。一体何が起こったのでしょうか。

見えない世界を学ぶのに勉強するだけではどういうにもならない部分というのが、忘れ去られたのが大きいと思います。

元々、仏教などの宗教においても、凄い境地のことなどは一般には伝えられていませんでした。
しかし、明治以降、日本は大きく変わります。良い意味でも、悪い意味でもです。

科学主義、知識主義という社会が日本にやってきたのです。
もちろん、発展したと言う部分では良い面もあったでしょう。
しかし、見えない世界においても知識として会得しようという知識人が次々に入ってきてしまったのです。

見えない世界についても言葉で説明し、それを知ることはできたのですが、理屈上での部分しか伝わらなくなってしまいました。

世の中、説明を聞いただけで知ることはできても、分かることはそう多くないのではないでしょうか。
自転車に乗る、泳ぐ、ピアノを弾く、バットにボールを当てる、色々なことがありますし、上達するための理論も沢山ありますが、とどのつまり、実践と練習を繰り返したからこそできたのではないでしょうか。

もちろん、説明できる部分を学ぶのは良いのですが、単なる知識で満足していては、次のステージにはいけないということなのです。

偉大な僧侶が大変優秀かと言われると、実はプライベートでは馬鹿なことばかりしているケースも多々あります。

慕われる人間というのは、愚かで狂った人間だということを狂愚誠に愛すべしといいますが、本質をついていますね。

とはいえ、知識偏重社会では、感じただけの見えない世界は単なる好奇の目で見られるだけで力ある人は苦労しますから、体得は感覚的、他人への説明は論理的、そんな両面ある学びにしています。
感覚が良いのか、理論が良いのかという二元論ではなく、うまく組み合わせたバランスを目指しています。
そのようなことに関心のある人はぜひ一緒に学びましょう。


これからも良い記事を書いていきます。