リスクをとる、という教育

いわゆる政治スキャンダルが絶えない。

某桜を見る会などという会合の参加者をめぐり、与野党が攻防を続けているがここでは政治に関してはコメントするつもりはない。

気になるのは参加者名簿を要求された当日にシュレッダー処理する大人(官僚)である。

また別の記事では(政治ではないが)教師が変なSNSをしないように学校にいる間はスマホを職員室に保管管理するという記事。

IT業界で生きているとこういった記事に対して周りは「80年前かよ!」という反応になるが、バッサリするだけでなく、一体このマインドは何なのか、について考えてみたい。

この2つには何かをシャットアウトして問題を防ぐ、という発想が共通しているのだ。

前者の名簿処分に関しては、見つからなければ野党からの追求もいつか冷めるだろうし、1ヶ月もすればメディアも報道されないだろうから、今のうちシュレッダーしておこうという発想。

当事者であれば確かにコトの大きさにビビるので気持ちはわかる。私が当事者だったとして「シュレッダーしてしまおうかな」という気持ちが1ミリも浮かばないという自信はない。やらないけど。

でもこの会に関わった事務局の人数もかつ参加者数も膨大である。隠せるものではない。他の誰かがコピーしている可能性もあるし、そもそも一度電子ファイル化されて関係者に共有されてしまうとこの世から消すコト自体が難しい。また問題なのは、消せたとしてそれによって責任が免れるかもしれない、ほとぼりが冷めるのを待てるかもしれない、という発想だ。

悪いコトほど上に報告せよというのは組織文化作りの基本の基である。太古から官僚組織はそんなものなのだ、という意見もあろうが、それでは進化しないから進化するための方法があると考えてみたい。

後者も、SNSの使い方や教師の不祥事が起こる原因や対策を深堀りもせず、スマホを使えなくしてしまえばいい、という発想である。

先日ある雑誌の特集がSNSだったが、その記事タイトルが「SNSから企業をどう守るか」だった。

守る?

なぜSNSを攻めの道具に使わない?なぜスマホを授業の効率をあげるために積極的に使わないのか?

コミュニケーションを円滑に進めるため、世の中を調べるため、災害現場などの現場の生の声に触れるため、教育に使える最高の道具である。

しかし不祥事があるたびに、守る、という発想になり、それは「使わせない」という発想になるのだ。生徒と愛のメッセージをやりとりするのなんてPCメールでもできてしまうので、授業中スマホを職員室に置いて何か本質的な問題を解決できているとでも言うのか?

こういった本質的な原因や問題に目を向けず、新しいモノに蓋をする、問題が起こればその数倍のベネフィットには目もくれず禁止する、という発想だ。子供が怪我するとよくないのでハサミを使わせない親なんて少ないだろう、どのように怪我しないように教えることをしているはずだ。ハサミは大人全員よく知っていて使えるからだ。ただ、少しでも知らない「スマホ」とか「SNS」となるとすぐ禁止したがる。

シャットアウトしたって何も問題は解決しない、という教育を早くからしておかないと「問題が起きれば禁止」というマインドセットが21世紀に生まれた子供達にももう根付いている可能性がある。

問題というのはシャットアウトするのではなく、机上に乗せ本質的な原因と問題の所在を明らかにし、文書にして保管することで組織知化する。リスクがあったとしても事前にリスクを承知で進めるのが、新しい領域を開拓するときには必須であるという教育だ。

つまり失敗を教育現場で学ぶために、例えばPBLでも最終プレゼンがどうであれ途中の過程で議論がうまくいかなかったりした原因を深く皆で議論する。向き合いたくない失敗だけど、最終プレゼンがよかったらなあなあに終わるのではなくあぶり出す。他にも例えば学校でクッキーを販売して売れ残るリスクや食中毒リスクと向き合わせる。リスクは避けるものではなく初めから向き合うものだし、失敗は深く分析し赤裸々に皆に共有するものだ、というマインドを作る。

そういった経験を積まなければ、30年後も何かあるたびに禁止するだけで、リスクを承知で新しいモノを取り入れ進歩することを拒否し続ける社会、がまだまだ継続しているかもしれない。

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