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父の絵がある意味

父が書いてくれた絵が届いた。学生時代から絵画が趣味。定年してからかな、少しずつ絵を描くことをリスタートしている。そんな中で数年前になるが、この絵を書いてくれた。嬉しかったなー。
この絵の場所は僕が独立した場所。新橋の裏通りにあるお店だった。3店舗目を出したくらいに書いてくれた。
そもそも、僕にとって父の絵というのは大きな意味を持つ。
まだ小学生の頃の話。中学生になってすぐ離婚をしてしまったので、幼年期の思い出が色々と欠如している自分。悪いこととか嫌なことは消し去る特異な能力があるのか、良いことしか覚えていないことが多い自分。
そういう意味で小さい頃の思い出はあまりないのだ。
その中で唯一というか、すごく印象的なことがある。
それは家族団らんが出来ていた頃、そのテーブルの近くには父の絵があった。父が学生時代に書いたものだったが、船の絵だったり、仙台の川を描いたものだった。
お店を出すときに、その絵が欲しいといったんです。家族団らんをしてもらうお店でありたいから。答えはNOだった。
理由は簡単。「絵は俺のものだ」と言われた。
独立して8年の時、その絵をくれた。嬉しかったなー。
その絵を飾り、全員でその下で毎日賄を食べるのが好きだった。どんなに忙しくても14人とか大人数でも毎日毎日。全員で食べた。今思えば最高の賄だった。
今、自分の店が分散し、なかなかそうはできない。ピッツェリアテルツォオケイには父の絵が飾ってあるが、そこでこういう気持ちでは賄いを食べていないだろう。ちゃんと伝えていないからだ。。申し訳ない。
豪徳寺のお店に父の絵が届いて飾ってみると、急にしっくりくる。
変な話だが、出来上がった感じがする。
自分の場所というか。夢というか。
お店というのは自分がやりたくて作る場所で、その場所にいろんな人がいろんな思いを足してくれるものだ。
この場所もすでにそういう要素もあったりすると思う。
そこに「魂」みたいなものが普遍的にあることは重要。どんなお店でも美味しいものが食べれるような気がする時代。この場所や僕、我々が提供する愛情とサービスが楽しい!って思ってくれる空間であるかどうか。
それはじんわりと伝えられるものじゃなきゃいけない。
無理やり木樽の香りを付けまくったワインは美味しくない。
ブドウ本来の味を素直に示していくようなワイン、目の細かいオーク樽で溶け込むように静かに寝かされた、乳化されたブドウは全く違う色気があるものだ。お店も見せびらかすだけでは成り立たない。
やはり。人や心を時間をかけて伝えていける「何か」が必要で。
それはとても難しいのだが父の絵が来たことでキュッとしまったような気がする。
また新しいステップに行ける勇気が芽生えた日。
それはこの絵から始まったんだっていつかいえるはずだ。

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