大人(の国)と子供(の国)について

 大人とは、規範的言明(~べき/べきでない、~せよ)に対するコミットメントを引き受けられる存在者である。ところで規範的言明の正当性を検証するために規範的言明の連鎖を遡行すると、かならず善悪の概念が要請される事が分かる(善悪の裁定者が超越的審級であるべきかどうかについてはこの記事では言及しない)。

 それに比べて子供というのは善悪の概念が曖昧である(幼子が蟻を虐殺する光景などを考えればよい。)が、その代わり身体の反応に対しては極めて敏感で融和的である。子供とは、快楽的言明(~したい/したくない、好き/嫌い)に対するコミットメントを引き受ける存在者である。私が大人を能力的条件で定義したのに対し、子供を事実的条件で定義したのは、大人-子供間の転向が、子供を始点とする大人への不可逆過程であると基本的にみなされているからであり(認知症などの疾患による退行は代表的な例外となるだろう)、また大人であり同時に子供であるという仕方がある位相において可能であるということを明示するためでもある。

 大人と子供の概念は人間という存在者の場において絶対的に規定できるものではない。先述の定義において存在者という語を使ったのは、この語句に国や社会といった、複数の人間から抽象され構築される法人的概念を代入し、その連関によって思考する必要があるからである。ここでは代表として国を存在者に代入するが、別に「コミュニティ」や「学校」でも構わない。法人的概念は法人ではない。法律及びその弱概念である明文法で規定される必要はなく(自然法や不文律、思い切って言えば「空気」でもいいだろう)、ある程度の意志統一システムがそこに認められていればよい。

 大人の国と子供の国の違いは、それが要請するのが倫理的世界観と身体的世界観のどちらか、という違いにある。道徳は善悪の法学・論理学を徹底しないまま発せられる命令であり、どちらの国も使用する概念統治システムであるから、倫理的世界観を道徳的世界観と言い換えることはできない。大人/子供に関する国と人間の性質の不一致が、人間の精神的成長に関する神話を不明瞭にする原因である。大人の国の子供(大人)と、子供の国の子供(大人)を同一軸で取り扱える適切な名詞がまだ存在していないことが、この事態をよく説明する。例えば大人の国において大人が子供を指して「放蕩息子」と罵倒するとき、大人は「放蕩息子」ではありえない。だが、子供の国において大人が子供を指して「放蕩息子」と罵倒するときは、その大人は大人の国の視点から見れば「放蕩息子」である可能性は十分あるのである。

 実のところ、その国においてある国民を「大人」として承認する働きを支えるのは道徳なのであり、国の性質から国民の性質が導き出されるのではない。大人の国の道徳を内面化した者が大人の国の「大人」であり、子供の国の道徳を内面化したものが子供の国の「大人」である。同様に、道徳の内面化が未熟な人間は「子供」として扱われる。大人の国の道徳はしばしば倫理と重なり合うが、子供の国においてはそのような事態は原理的に起こりえない。

 では道徳への馴致はどのように制度として構成されているのか。学校教育はもちろんとして、大人の国では宗教的思考への誘引装置(教会や聖典)が、子供の国では祭りが採用される。倫理は神から与えられた戒律が、公理的意味で神の存在を抹消する操作を経て形式化されたものであり、歴史的にも逆ではない。大人の国で幼少期に(唯一)神とその言葉に触れるという体験が、道徳を経由して「大人」になった時の倫理的思考を形作る基盤となる。一方子供の国で重視される祭りは、個々人で隔絶している身体的経験を儀式的に統一する役割を果たす。この統一化された身体的経験が子供の国における道徳の基盤となり、日本では「空気」という言葉で親しまれているあの不文律を形成するのである。

 大人の国と子供の国の問題のアポリアは、「どちらの国が(倫理的に)良いか/悪いか」という問いが構造的に有効でない点にある。それは大人の国においてのみ有効な固有の問いであるからだ。むしろ、(大人/子供としての)個人のあり方が「大人/子供」を規定する国のあり方と合致しない苦しみというミスマッチの問題を問うべきである。ミスマッチを解消する方法は原理的には3つしかない。すなわち順応、移動、革命である。

 順応とは道徳の内面化に向けた個々人の努力を要請する立場であり、今では評判の悪い自己責任論とパターナリズムの合わせ技である。「大人」が「子供」に対し、当の国の性質に合わせて構成された道徳の内面化を要求するという事態は、どのような世界においても極めてありふれた光景であろう。言うまでもなく当事者にとって最も心理的負荷がかかるソリューションであり、補助装置として薬物までもが用いられるようになれば大きな社会問題となるだろうし、実際そうなっている。

 移動とは、当事者が自分の性質に適合する別の国に移動(移住)することを要請する立場であり、これは輸送技術と、国際化及びグローバル化の進展によって可能になった。実際この方法はグローバル資本主義の論理によく適合しており、当事者はこのチケットを手にすることで、少なくとも順応の立場を選ぶよりかは容易にミスマッチの問題を解決できるだろう。大人の国の子供は子供の国へ移動するだけで「大人」になりうるし、子供の国の子供は大人の国へ移動するだけで大人になりうる。問題はこのチケットが決して安くなく、決して誰でも手にできる類のものではないということだ。

 第3の選択肢、すなわち革命は国を転向させるというものだ。これは過去に行われたどのような革命よりも革命的な性質を持つ。というのも、ほとんどの革命は具体的な統治機構とそれに付随する社会・経済制度の抜本的革新にとどまっており、形而上学的意味での革新というのはほとんどなされなかったからだ。形而上学的革命の名に値するのは宗教革命(改革の域ではない)およびフランス革命とロシア革命であり、その他の革命はほとんど革命の名で密輸入された改革に過ぎない。先述した革命はどれも大人の国で起こり、革命後も各国は大人の国であった。国に大人/子供の転換を迫るような革命は、ただの一度も起こっていない。その点に絞って言えば、明治維新の失敗は明らかである。日本発(初)の哲学である京都学派が展開した無の哲学は、意志の点から見れば、子供の国から抜け出せない日本をいかに大人の国にするかという歴史過程のうちで、子供の国に根を張った大木に、大人の枝を接木する試みであったと言えよう。だがその試みもまた挫折した。天皇制という人工的な切断がその限界を示していた。幾多の機会を経ても、子供の国は子供の国のままであった。

 革命という選択肢ははっきり言って不毛で、3つの選択肢の中で1番非現実的である。大人/子供の転向を果たした国では、諸個人の「大人」/「子供」の性質が激変する。悪くすれば状況を裏返しにするだけで、ミスマッチの解消には到底至らないだろう。しかし3つの選択肢の中で、これだけがあのアポリアを解決する可能性を持っている。比較を宙吊りにし、内発的運動によって異なる状況を生成する試みは、文化相対主義の特異点である。革命は既存秩序を超越するという点によって、異なる文化上の具体的状況でありながら同列的に思考することを可能にするからである。また、革命の試みをさらに徹底的に追求することで、世界が最も過激な段階、すなわち大人/子供の枠組みを超えた第三の成熟段階に到達する可能性さえあるのだ。

 敢えて言おう。国と内心の狭間に病める「子供」達よ、革命を選び取るべきだ。革命は君達にしかできない。「子供」の立場に理解を示したり、ノスタルジーからごっこ遊びをすることは「大人」にもできるが、道徳を打ち倒すことは決してできない。その特権は「子供」のうちにある。順応を完遂したり、移動で内心と世界の調停を勝ち取ってしまったらもうおしまいだ。「大人」になれた君は嬉々として自分の子どもを「大人」に育てあげようとするようになる。君たちは今まで通り国の中で、あるいは国と国の間で、根本的に不毛な対立を続けることになるだろう。
 
 大人と子供の境界面を激しく揺さぶり続けよ。第三の成熟段階に人間が、革命が到達した時、「国」もまた終わりを告げるのかもしれないのだ。それは白昼夢的な確率過程の先にあるユートピアだが、それでもユートピアに違いない。
 
 今改めて私はユートピアをこう定義する。そこは大人も子供も存在しない世界である。

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