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学校に「行けない」と「行かない」


不登校であるだけで、子どもはいろいろ

子どもたちを見ていれば、本当に個性豊かな子どもがいます。兄弟姉妹がいるご家庭にあっては本当にそれは身近に感じていることではないでしょうか?
不登校いう言葉があるから、学校に行けている子と行けていない子に分断されてしまいます。
現象に言葉をつけることは仕方のないことではありますが、かつての「登校拒否」、そして現在の「不登校」も学校に登校するのが前提にあるところに、違和感をもちます。
圧倒的に不登校の子どもの方が少ないため、少数派になったというだけでも何か多数派からの抑圧ようなものやみんなと異なることをしているという罪悪感、迷惑をかけているという自責の感情のようなものをもつ子どももいます。
不登校ではない、大多数の子どもたち、そしてその家庭や世間のみなさんは少数派である不登校の子どもの気持ちはわかるはずもなく、「不登校の子ども」というカテゴリーですべてを見る傾向があります。不登校の子どもにもいろいろな子どもがいるのです。

学校に行けない子どもたち

学校に「行けない子ども」は、これまでさんざん誤解を受けています。行けるのに、行けないのは「サボっている」「怠けている」「やる気がない」「躾けが悪い」「甘やかされて育った結果」などなど。
これらは、不登校の子どもを知らない周りの大人が、勝手につくりあげた理由であってほとんどは幻想に近いものです。
「行けない子ども」は、本当に「行けない」のです。まずは、それを素直に受け入れることです。
さらに不幸なのは、一見不登校に理解があり支援を行うようなカウンセラーやソーシャルワーカーのような人々が行けないのは「心の問題」と思い込んでいることです。「サボっている」「怠けている」など一方的に決めつけるのはもってのほかですが、「心の問題」とだけ扱うのもまた同じなのかもしれません。「心=身体」ですし、不登校の多くは、人間関係やその場をつくる雰囲気までを含む社会的な関係性に問題があるのです。
「行けない子」は、その子どもの特性、家庭の状況、ご家族の理解、学習の理解度、学校の友人関係、担任との関係、そして時間の経過などが絡みあっています。その全体像を理解するにも、時間がかかるものです。
不登校の子ども、とくに「行けない子ども」について、支援をする場合には、しっかりと時間をかけてその子を理解することが一番大切なことです。

学校に「行かない」子どもたち

その一方で、学校に「行かない子ども」は子ども自信の意思が含まれています。時にそれはご家族の意思が大きく影響している可能性もあります。どちらにしても、自らの選択の結果、「学校には行かない」ということを納得しているわけです。
「行かない子」は、登校しないことを決めていますがその代わりに何をするかは不明です。これを放っておけば、家庭内でできることは限りがあります。多くの場合は、SNS、ゲーム、動画を長時間することが日課になっていきます。それが子どものやりたいことなのだから、させておけばよいというのも短絡的です。
子どもの成長は、周りの環境に大きく左右されるわけです。家庭内でスマホ付けの生活が続くことが教育だと断言できる人はいないでしょう。
だからこそ様々な教育の機会、例えば体験すること、どこかに行く、誰かに教わる、教材を買うなどを家庭ですることになります。そしてそれは経済的な格差に左右されています。お金がある家庭の子どもは、家庭教師をつけて、様々な教材を買い与えることもできますし、様々な体験の機会で同世代の子どもと交わることもできます。そういうご家庭であれば仮に学校に行っていなくても教育は充分受けられるでしょう。
しかしそういう子ばかりではありません。「行かない子ども」のご家庭の中には、ひとり親家庭も生活困窮家庭もあります。そういう子どもがたくさんおり、そのほとんどは家にいてスマホ、タブレットで時間をつぶしていることが多いのです。

支援する側が学校に「行けない」「行かない」子どもを理解する

心身の状態も、「行かない子」よりも元気であることの方が多いです。
私たち地球子屋が支援をする場合、ある意味では「行けない子」から「行かない子」へと変化を促すところが支援者の目標の1つになっているといってもよいかもしれません。
なぜ「行かない子ども」になることが目標になるのでしょうか。
それは家族や周りの評価ではなく、自分が今置かれている現状を受け止めることがとても重要なのです。そうでなければ「学校に行かなければならない」「学校に行かない自分はいけないことをしている」などの呪縛から逃れられないからです。
極論を言えば学校に行っていても、行かなくてもそれはあまり問題ではありません。なぜなら教育を受ける権利がある子どもは、その権利を自らどのように選択するか自己決定できるからです。これまでは、社会が未成熟だったために学ぶ場は学校しか用意できていませんでした。私立の学校も選択肢としてあるわけですが、経済的に恵まれた家庭しか選択することができません。そうでない場合は、公立の学校しか用意できていなかったのです。それは社会の課題なのです。子どものせいではありません。
その公立では自分は学ぶことはできないということを行動で示しているのです。それが問題であるはずありません。ですから、「不登校」などという表現で、登校しているのが良くて、登校していないのは悪いかのようなイメージの言葉は避けるべきです。