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偏愛は苦しみでもあって、豊かさでもある。ジムをサボるための良い言い訳とは

「この身体にいくらかけたと思ってるんだ?!」

先日、飲み会の席で友達が言い放った一言だ。


彼は筋肥大に人生のほとんどの時間を費やしているといっても過言ではない。
主食はプロテイン。ささみは友達。デートはジムで一緒に筋トレ。尊敬する人はなかやまきんに君。

パワー!!


そんな彼が参加していた飲み会で、アルコールは筋肉の分解を促すとかなんとか言いながら、烏龍茶を頼んだところで友人がおもむろに問うた。


「そんなに筋肉つけて、なんかいいことある?むしろ、もっと美味しいもの食べたいとか、筋トレやめたいとか思うことないの?」


この質問が放たれたあと、場は一気に静まり返った。

一瞬は全員が「確かに」と同意しかけた。

だが、次の瞬間、我々は新たな疑問を抱く。

「筋肉が生きがいの彼に、横浜高校時代の松坂もびっくりのド直球で、その質問をすることは正しいのだろうか」と。

そして、「もしかすると彼は殺されるのではないか」と。


これは筋肉をまとう人への完全な偏見だが、僕はキン肉マンは皆、超人ハルクだと思っている節があり、ハルクが冷静さを欠いて暴れ出すのではないかと危惧したのだ。

何やらアニメの登場人物が渋滞してきたところで、飲み会の場に戻る。

しかし、場がこおりかけたその瞬間。
彼だけが、至って冷静に質問に回答した。

「いや、普通にあるよ。今日だって、本当はビール飲みたいし。ジムに行くにしても、マジでめんどくさいから、今日休みにならへんかなって思うことすらたまにある」


ジムは、自らの意志で行く場のはずだ。行くか行かないかの主導権は全て自分が握っているはずである。なのに、ジム側が休みかどうかに全ての選択を委ねるなんて。

彼は複雑な胸中を我々に打ち明けてくれたのだ。



「え?ジムなんて自分が行くかどうか決めるんでしょ?休みじゃなくても休めばいいじゃん」


デジャヴ。

一瞬は全員が「確かに」と同意・・・(以下同文)

質問者は先ほどと同じ友達である。彼のメンタルは強靭か狂人かのどちらかであることは間違いない。

特殊な悟空なのかもしれない。恐ろしい質問を投げかけるときに「おら、わくわくすっぞ」となるタイプの人間、いやサイヤ人なのかもしれない。


筋肉マンは、怒り狂ってハルクになることなく、またしても至って冷静に答える。彼は狂人ではないようだ。

「うーん。それはそうなんだけどね。行かないと負けた気になるんだよね。行くのが当たり前になってるから、行かないとすごい罪の意識に苛まれるっていうか。」

この時の彼の顔は、まるで教会の懺悔室で過去の殺人を神父様にだけ告白するときのようであった。

神よ、どうか彼を許したまえ。
なぜ、ジムに行かなかっただけで、彼がそこまで罪の意識に苛まれなければならないのでしょうか。

筋トレとは、贖罪の一種かなにかなのですか?


ちなみに、私はジムを「今日は気分がのらない」という理由で平気でサボる。

ジムに行きたくないから、立ち飲み屋によって酒を飲み。
「お酒飲んでもうたから今日はジム行かれへんわ。しゃあないな」という、名探偵コナンでも迷宮入りのアリバイ作り(?)をすることすらもある。


神よ、どうかこんな私のことも許してください。行こうかな懺悔室。


「なんかその辺がよくわからないんだよね。勝つとか負けるとか。ジムに苦しみにいってるようなもんじゃない?」


神よ、どうか彼(スーパーサイヤ人というより狂人)も許したまえ。


「まぁでもほら。一回始めちゃったし。続けちゃったし。結構なお金もかかってるから。この身体にいくらかけたと思ってるんだ?!って感じ。」


ここで冒頭のセリフである。


この身体にいくらかけたと思ってるんだ。
ジムの会費。プロテイン代。サプリ代。食事にも気を遣うため、食費も結構かかるそうだ。


世の中とは、不条理なものである。健康のために始めた筋トレがいつの間にか贖罪と化し、彼の生活まで圧迫することになろうとは。

あぁ神よ、我々はどうすれば救われることができますか。この不条理な世の中で、どう生きていけば・・・


ただ、ふと我に返り、彼を見て思った。

そんなふうに話す彼は全く苦しそうではなかった。辛そうでもなかった。

その瞬間、彼はとても楽しそうだった。

烏龍茶しか飲んでいない彼の体内にアルコールは入っていないはずだから、彼のセリフと表情は全て心からのものだろう。


そして、会場も笑いに包まれていた。
先ほどまで狂人と化していたあの友達ですら「この身体にいくらかけたって、お前が好きでかけたんだろ。脳みそまで筋肉やん」と言いながらビール片手に笑っている。

(神よ、彼のことは許さなくてもいい気がします・・・)


結局、筋トレは彼の苦しみでありながら、喜びでもあり、生きがいなのだ。


僕たちが、楽しく酒を飲みすぎて、次の日の朝、二日酔いで罪の意識に苛まれている間に、彼は早起きして、ジムに向かい、筋トレに励むのだ。


そう考えると、みんなもっと好きなものに素直で、真っ直ぐでいいんじゃないかという気がしてきた。
偏愛によって苦しめられることはあれど、それによって本当の豊かさは失われないはずだ。

楽しいから苦しいのだ。苦しいけど楽しいのだ。

大好きな何かについて話すあなたを、楽しくて笑う人はいても、バカにして笑う人はいないはずだ。

もし、いても、そんな人には言ってやればいい。
「この趣味にいくらかけたと思ってるんだ」って。


ちなみに、先ほどまで狂人と化していた友人は、その後も飲み続け、筋肉紳士の友人に、ベロベロになりながら絡み続け、その場のノリで彼とジムに行く約束をし、身体を動かすことにハマって、そのジムに入会したそうだ。


一方の私は、たまにジムにいくものの、やはりまだまだ気分がのらない時はサボり続けている。

ただ、一つだけ変化があった。

ジムをサボるための言い訳が変わったのだ。


脂肪に包まれたこの身体も、これまでの食事によって形成された一つの尊い形なのである。

その裏には、食費に大幅に投資を重ねてきた過去がある。

というわけで、最近は、ジムをサボりたくなったら

「この身体にいくらかけたと思ってるんだ?!」と呟いて、美味しいものを食べに行くことにしている。


















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