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てりたまです。
監査法人で30年強、うち17年をパートナーとして勤めました。

前回、監査をやってよかった、と思うことを投稿しています。

監査人の性分としては、ほめてばかりでは片手落ちなので、マイナスのことも話そうと思います。
と言っても、シリアスな内容にはならないので、気楽にお読みください。

監査人のへんな癖

ちょうど、こんなツイートをしました。

この「3つの職業病」が監査人のよくある癖のように思います。

理屈っぽい

監査は、会計基準や監査基準という理屈の世界と、生身のクライアントという現実の世界との間でもがく仕事です。
現実の世界で証拠となるような情報を入手し、理屈の世界に落とし込まないといけません。
生身のクライアントには「理屈っぽい(≒頭が固い)連中」と思われているかもしれませんが、監査法人の中では、審査や品質管理部門との間でもっとぎりぎりと理屈を突き詰める議論をします。

監査チームで理屈を積み上げて結論を出すのですが、審査や品質管理部門との議論の中で、理論の飛躍や矛盾、不十分な証拠が次々と明らかになります。その都度、理屈を修正し、新しい証拠で補強。
この過程で、理屈っぽい人間が出来上がります。

仕事上必要なことではありますが、問題は日常生活でもこの癖が抜けないこと。
テレビを見ていると、理屈が通っていないと気になります。

さらに深刻な問題は、家族の会話の中で理屈っぽさが顔を出すときです。
家族と話していて論理矛盾に気づくとき。それを口に出すと、楽しい団らんの場が一瞬にして凍りつきます。
会計士同士のご夫婦やカップルもたくさんいらっしゃいますが、似た者同士でうまくいくのか、あるいは血で血を洗うバトルが繰り広げられているのか、気になるところ。

基準など判断のよりどころがほしくなる

会計基準と監査基準は監査という仕事を縛っていますが、監査人を守っているとも言えます。
基準どおり仕事を進めていれば、非難されないからです。

「基準どおり仕事を進める」ことが恐ろしく難しいから苦労するのですが、監査を離れて基準のない世界で仕事をすると、たちまちとまどうことに。

監査では、会計や監査の基準にぴったり沿っていれば問題ないですが、現実にはどうしても乖離がおこったり、基準上明確でないことに出会ったりします。そこで、基準からどれくらい離れているかを測って、受け入れ可能か判断。
常に基準が視界に入っています。

この基準がなくなって何をやってもよい、となると、とたんに心細くなります。
ESG開示では「アドバイスはできますが、監査や保証の基準がないので、意見は出せません」。合意された手続はできますが、手続はクライアントが決めてください、となるわけです(こっそり手伝いますけどね)。

昨年、監査法人を退職した今の私が、まさにこの状態。というよりも、単に私のことを書いただけかもしれません。

第三者的発言(≒評論家的発言)が多くなる

監査は、独立した第三者として意見を表明する仕事です。
独立性のルールはかなり厳格に定められ、さらに強化されているところ。
そりゃあそうですよね、クライアントとずぶずぶの監査なんて、誰も信用できません。

独立性のルールで禁止されていることの一つに、「クライアントの内部統制を担う」ということがあります。クライアントのために判断することもできません。
例えば、クライアントから会計相談を受けるとき。会計処理にA案とB案があり、どちらも監査上OKだとすると、両案のメリットとデメリットは言いますが、「私はA案の方がいいと思いますよ」というのには抵抗があります。
もちろん、会計士によって、言う人と言わない人がいます。また、クライアントとの信頼関係によっても変わってきます。

さて、そんな会計士が監査を離れるとどうなるか。
この職業病を全開にしたままでいると、ほかの人のことについてはとやかく言うが、自分で決めるのは苦手、ということになります。
いわゆる「評論家」というやつです。

おわりに

どんな仕事にも独特の「型」があり、その型に自分を順応させることで役割を果たします。長年やっていると、この型が身について、意識しなくなります。
身びいきもありますが、会計士は穏やかな人が多いようです。監査で研いだ爪は見せないようにしながら、問題なくほかの仕事で活躍し、日常生活を送っておられる方が大半だと思われます。
監査人の皆さまには、監査の現場で爪を研ぎつつ、平和にプライベートを過ごされることをお祈りしています。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。
この投稿へのコメントや、Twitter(@teritamadozo)などでご意見をいただけると幸いです。
これからもおつきあいのほど、よろしくお願いいたします。

てりたま

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