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まどろみ「これは現実か、夢の途中か、」


自分が何者であるのか不確かで、いや別に定まっていなくでも全然オッケーって状態にあるときの“いま”は数字と言葉で飾られていないから


例えば目覚めたときに勤め先から帰ってきた50代の父親がすぐそこにいたとしても何ら問題がなく、その横にいる圧力釜でハンバーグを作っている母親と私の息子が共存していること、なんかも割にしっくりと画角に収まっていたりする。


次の瞬間に高校の制服をきた自分自身が昼休みの居場所を探していたりして、結局は屋上で空をながめていたりとか、明らかに都心の街からは望めないような山の中腹の空だか山の木々なのか、境目が曖昧になっている風景と合わさりながら

公園の遊具の上から落ちてくる滝のような水に自ら頭を突っ込んで、水浴びだとか理屈とかなんにもない、ただ頭に打ち付ける水を感じながら

自分はなんで周りと打ち解けることができないのだろう、とか、生きてりゃぁ誰しもが一度は悩むような、洒落臭いテーマをそれは仰々しく、一丁前に語りながらもその薄っぺらく明らかな模造品である“モノ”によって、自分の人間らしさみたいな理由をぐるぐるましつけていたりする。


もちろん“いま”の正解というのは2022年に51歳である自分で、息子との二人暮らし。

それぞれ勤め先があり、夕飯つくるのが面倒臭いと思うその瞬間までもが、心いらつかせる瞬間であるとか、そう、なんなら“いま”こそが、まどろみであって欲しいとか願うばかりで、無論、この世の中で定められた時間枠の繰り返しのなか、仕方なく51回目のターンをすごしているような、そんな具合である。

人の身体を組み立てている細胞は、こんな微睡みのあいだも、着実に痛み消耗しながら少しずつ消えてなくなっていくのだろうし

なんなら私も心臓が止まるなんていうドラマチックな展開なんてものは、私には全く必要ないものだから、強い風がふけば舞い上がる粉塵のように、時が来たら消えて仕舞えばいい。

まどろみ、、

微睡から覚めると“いま”の自分の存在を確認する作業から始まる。とりあえずではある。

かろうじて自分の名前はわかる。けど。

年齢だとか、生活している場所であったり、同居している相手であったり、とか、ピンとくるものを一つ一つ拾いあげながら、外観を寄せていき、いまの自分に戻っていく。


とはいえ、どうしたら私は世の中に溶け込んでいけるのだろうか?と、考えている17歳の自分も確かにここに存在している

過去とかそんな理屈は何にも意味をなさないよね、とか、そりゃあわかるけれど。

まどろみから覚めた瞬間からは、まずは、、美味しいご飯を食べる事からでもリスタートしてみるのが良いのかな。


しかしだ、これまでの50年間は微睡と一緒に歩んできているのは間違いなく。あわよくば、この先も実は微睡でした、なんて状況であっても私は幸せだと思うことができる。

生きてる、死んでるらなんて区分けなんかは、本当にうざすぎるから必要ない。

白いケーブルニット姿の女性は儚くて素敵だよね、みたいな話だ。

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