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教員免許更新制廃止に見る、社会の教員への見方、そして「社会への問い」。

教員免許更新制が2022年7月1日以降廃止に

日経ビジネス電子版に、ライフイズテック 官民共創プロモーターの立場にて記事を寄稿させていただきました。
6/30の17時に掲載され、7/1、7/2のアクセスランキングにて、両日共に、日経ビジネス電子版記事全体の5位以内にランクインしましたので、おかげさまで多くの方にご覧いただけているようです。

※日経ビジネス電子版読者は全文ご覧いただけます。
※なお、以下の文章は一個人の立場からの見解・考え方となります。

教員免許更新制廃止に対しては、教員免許更新制度の廃止、現役教員の9割以上が賛成も…「免許を保有していない人」は半数以上が反対(まいどなニュース)のように、現役教員と教員免許を保有していない人とで意見がかなり分かれています。
本状況を見て、いくつかの問いを立てたいと思います。

教員免許更新制は教員の資質・能力の向上に適切なものだったか?

教員免許を保有していない人からすると、「教員は常に学んで、時代の変化に応じた授業をしてほしい」と「ねがう」ものだと思います。
それゆえに、感覚・感情的に、教員免許更新制が廃止されると、この「ねがい」が叶えられないのでは、、、と捉えてしまうかもしれません。

一旦間をおき、冷静に、教員免許更新制を捉えてみます。
・教員免許更新制は、10年に1度更新でした。
・教員免許更新制は、だいたい30時間の講習を受けるものでした。
これで上記のような「ねがい」が達成されるでしょうか?

私の感覚では、上記の「ねがい」を達成する手段としては疑問を抱きます。それよりも、主体的に学ぶ教員を支援する方が、上記「ねがい」が叶えられると私は思います。

そして、具体的な運用の設計はこれからになりますが、今後は教員の日常的な「研修」を支援する方向性に変わろうとしています。

教員免許更新制が教員としての適格性を担保する手段になっていたか?

上述のまいどなニュース中に、免許不保持者から「ただでさえも不祥事が多発している教員資格」という意見があります。
「不祥事が”多発している”」かどうかは報道のされ方などによる主観的なものである一方で、「教員として不適格な方には教壇に立ってほしくない」という「ねがい」が、教員免許更新制の廃止への反対意見にもつながっていると思います。

不適格、という言い方も様々に解釈できます。
文科省の「「指導が不適切である」教諭等の定義」では、「指導が不適切である」教員の定義と、分限処分、懲戒処分との関係について触れられています。そして、「指導が不適切である」教員への対処としての教員免許更新制の適切性は上記「教員免許更新制は教員の資質・能力の向上に適切なものだったか?」で触れており、不祥事を起こした教員等への対処については、分限処分や懲戒処分相当であり、これらは教員免許更新講習非受講の場合と明確に区別されています(←リンクされているページのQ4)。そして昨今では、2022年4月1日にわいせつ教員対策新法が施行される等、不祥事を起こした教員等が再度教壇に立つことは以前より困難になっています。

果たして、教員免許更新制が教員としての適格性を担保する手段になっていたでしょうか?

そもそも現行の教員免許制度と「教員という集団」に「ねがう」こととは一致しているか?

 教員免許を取得するためには、原則として、大学などの教職課程の単位を習得する必要がある。教員を目指す人はこの過程で「教育の基礎知識や指導技術に関わること」や「教科および教科指導に関わること」などを学ぶ。

 指定された内容を履修し、単位を習得した上で無事卒業したら教員免許取得資格を獲得。都道府県教育委員会に申請することで、晴れて免許が授与される。教員免許取得者は各都道府県や政令指定都市が実施する教員採用試験を受験してこれに合格することで、教員として教壇に立つのが一般的な流れだ。(「教員免許更新制が明日から廃止、社会総出で教育を「つくる」時代に」より引用)

教員となり教壇に立つためには、①免許を保持していること②教員採用試験に合格すること、の両方が基本的には必要です(特別免許状他の説明はここでは省略します)。つまり
教員免許を保持しているだけでは教壇には立てない。
○教員に「ねがう」ことを免許制度に着目するだけで叶えることはできない。
などの側面があることに留意する必要があるのではないでしょうか。

また、学校の教員として特定の科目の「知識があって、教えることができる」ことと教員免許との関係について、皆さんはどれくらい意識しているものなのでしょうか。以下に2つの例を取り上げます。

1つめ。高等学校教員(wikipedia)にある通り、高等学校教員の教科免許は「理科」という括りとなっているため、教員免許制度の視点だけで見れば、「物理」の教員が「化学」や「生物」「地学」などの授業を担当することは何ら問題ありません。

2つめ。下記記事と、それに対する奥村晴彦三重大学名誉教授のtwitterをご紹介します。
※22/07/04 16:00追記)元記事は削除されたようです。

以上に取り上げた2つの例を見て、以下の「問い」を投げかけたいと思います。なお、より焦点を絞るため、上記2例に共通する「高校」領域に限定した問いにしますが、より広範な領域に広げ、問い立てし、考えてほしいとも思います。

○社会は高校教員に「教科の知識を教えてもらうこと」をどれくらいの強度で求めているのでしょうか。
○その強度で「教科の知識を教えてもらうこと」を高校生の段階で他者(教員)に求める社会が、結果的に作る「大学入試」や「大学」そして「社会」の在り方はどのようなものになると思われるでしょうか。

教員に感覚・感情的に「ねがう」ことの発露から、教員免許制度や「教員という集団」の在り方について評し、その声が社会を形成するのは、私はときには危険だと思います。
教員に「ねがう」ことと、教員免許制度のあり方については、「教員という集団」に「ねがう」ことそれそのものも含め、感覚・感情論にならず、冷静に問い立てして考えていく必要がある、と私は思います。

社会への問い

社会は、都合のいい時だけ、「教員という集団」に高度な知識・技能を求めてはいないでしょうか。
都合のいい時だけ、生徒指導上の相当な困難を解決することを一手に求めてはいないでしょうか。

「基本的には学校以外が担うべき業務」には「放課後から夜間における見回り、児童生徒が補導された時の対応」も含まれているが、これを「学校以外の主体(地方公共団体、教育委員会、保護者、地域人材等)が中心に対応している」ケースは全国で25%にも満たない。言葉を選ばずにいえば、社会が学校に過度な要求をしている状態といえる。(「教員免許更新制が明日から廃止、社会総出で教育を「つくる」時代に」より引用)

その一方で、社会は、都合のいい時だけ、「教員という集団」が「(社会に)必要」と思う知識・技能の伝授を拒み、自らが学びたいものだけ学べるように、という声を発してはいないでしょうか。
都合のいい時だけ、生徒指導上の干渉行為を過剰に非難してはいないでしょうか。

教員はブラックな職業だと見られるような状況を解消したいと、私は強く思います。
そのために、「教員という集団」の肉体的・心理的安全性が確保されることが、未来を創る子供たちにとって最も大事なことの1つである、と、私は強く思います。

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