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東日本大震災の経験と想い


こんにちは、てらみこ(@teramikochannel)です。

今日は3月11日、あの日から12年経ちました。
12年前の悲惨な出来事を経験した私から、みなさんにお願いがあります。


あの時の経験とともに綴りました。
よろしければ、さいごまでご覧ください。



「私はこのまま人生を終えるんだ」

2011年3月11日14時46分、
地面から突きあげるような衝撃でグラッと体が揺れる。
あっという間にテレビは映らなくなり、食器棚は倒れパリーンとお皿が割れる。

グラグラ揺れる家、
「大工の祖父が建てた家だから大丈夫」そう言い聞かせても、冒頭の言葉が頭をよぎる。


グラグラ立ち上がることも出来ない状態。

そんな中で、阪神淡路大震災で娘さんを亡くした母親の手記を小学生の道徳の時間に読んだことを思い出した。

瓦礫に押しつぶされている子供が目の前で自分のことを呼んでいる。
それでももう助からないと悟り、近くにあったハサミで娘の髪の毛を切り救急の助けを断った。


「この子はもう大丈夫だから、他の人を助けてあげてください」

そう言って最期に2人だけの時間を過ごしたという手記。



「自分が瓦礫の下で見つかったら、親は見つけてくれるだろうか」
「最期にもう一度会いたかったなぁ」

人は窮地に立たされたら、こんなことを考えるのかと自分でも驚いた。


家族への感謝、人生が終わる悔しさ、最期に家族に会えない寂しさ。


全部が走馬灯のように頭の中を駆け巡っていくと、揺れが少しおさまった。

「今だ!」私は一心不乱に家の外に出た。
学校の制服のまま携帯だけ持って避難所へ向かった。
そこには着の身着のまま逃げてきた人達。

家族を探している人、亡くなった旦那さんの遺影をリュックに入れて持ってきている人。
色んな人が居たけど、みんな不安な顔をしていたのは同じだった。


避難所でたまたま父親に会えて、揺れがおさまったAM0:00頃に家に戻った。お腹が減った私に父親がストーブでお湯を沸かしカップラーメンを作ってくれた。

この夜に食べたカップラーメンが今までで1番美味しかった。


その後祖父母や母親、兄に会えた。
安心の涙は出てこなかった、
だってまだ揺れは続いているし水は出ないし電気も無くロウソク生活だったから。


3日後に電気がついた時は拍手した。
こんな「当たり前」をありがたく思ったのはいつぶりだろうか。


1週間後には親戚の家では水が出たそうで、お風呂に入れてもらった。
久しぶりのお風呂は本当に気持ちよくて、長風呂をしてのぼせた。



毎日ご飯を食べられる幸せ、電気がある幸せ、お風呂に入れる幸せ。
隣に大切な人がいる幸せ。

この“幸せ”は当たり前にありすぎて、そこにあることを忘れてしまう。


だからこそ、今日だけでもいいから、自分の目の前の“当たり前”にある幸せに想いを馳せて欲しい。

1分後、目の前の景色は変わっているかもしれない。
大切な人が居なくなっているかもしれない。
「あの時言えばよかった」そんな後悔はしないように、今すぐ想いを伝えて欲しい。


東日本大震災を経験した私からの願いです。


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