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夕方頃から感じていた症状が、少しずつ悪化している。
鼻腔の奥がむず痒い。喉の付け根あたりがチリチリと痛む。
時計が0時を回った所で、男はそんな自らの体内の異変に目を覚ましてしまった。
鼻で呼吸しようにも鼻腔が痛むし、口で呼吸しようにも喉が痛む。どうしたものか、眠れない。

(ねむれない…)

風邪でも引いたのか。そんな独り言を、蚊帳の中で言った。
隣では、妻が眠りについている。

「コンヤ、ハ、ウドン、ヨ」

毎度毎度の寝言なので、男は気にも止めず妻から目を逸らした。
そして、男は柱に架けられた振り子時計を見ると、まだ時刻が0時を過ぎて間もなかった事にため息が出た。2時間ほど前に眠りについたばかりだというのに、もう目覚めてしまったのだ。あゝ喉が痛い。
取り敢えずうがいでもしようと、男は蚊帳の外へ出て台所へ向かった。
湯呑みに水を半分ばかり入れてから、そいつでうがいした。
そしたら、喉が水に触れた瞬間、火傷でも起こしているかの様にジンジン痛い。
男は咄嗟に眉をへの字に曲げ、水をそっとシンクに吐き出してしまった。

「いってー……」

声が漏れると、次はその声が喉を擦り切る様に刺激するもんだから、男は一瞬、驚いてハッと息を止めてしまった。
夕方の頃の喉の違和感を、もう微塵も感じさせない程に症状は悪化していた。

(参ったな…)

まだ週始めだというのに、これでは最悪、仕事を欠勤しなくてはならない。まだ月曜の夜中だというのに。
男は体の火照りから、虚空を阿保のような面でぼうっと見ていた。
そうしていると、男は次第に事の発端を悟りだした。

一昨日、歯科検診に出向いた際に、男の治療に携わった女の助手がやたらに咳をしていたのだ。いくらマスクをしているとはいえ、余りにも咳がおさまらず失礼しますとだけ告げその場から去ってしまう程だった。
そんな席で男は大口を開けて構えていたのだから、思い出すだけで馬鹿らしく思えた。

男は多分、否、それこそが原因だと思い渋々と頭を掻いた。
それから男は、痛みに耐えながら、うがいを二、三度した。熱を測ると37.8あった。
風邪薬を飲んでから間も無く布団にくるまったが、その夜は結局、喉の痛みから嗚咽を繰り返し、ほぼ一睡もできなかった。



翌朝、喉の痛みは幾分軽くなったのだが、咳が続いたせいで声が枯れてしまった。まぶたもどこか腫れぼったい。熱は38.6°ある。朝食も喉を通らず、殆どを残してしまった。家の玄関を出る際に妻は語尾に付け足す様に「お気をつけて」と云ったが、喉に障るのが面倒だったので聞こえないふりをした。

マスクは息苦しくて好きじゃないが今日ばかりはそうも言ってられない。
八百屋の前では女中たちが世間話を携えてアンドロイドのような声で笑っていた。
霧がかった山並みから射す日差しがとても鬱陶しく、男の視界から侵入して頭痛を催した。
電車の中でも、今日は一段と人の声や線路を踏み仕切る音に厭気がさした。

出社してから間も無く、胸焼けを起こしてトイレへ駆け込んだ。気に掛けた部長へ男が事情を説明したら決まり文句の様に、病は気からとか、気合いで治せと笑われてしまい、仕舞いには
「元気があれば、なんでも出来る!いくぞー!」
と、モノマネをし始め、部の人間が遠目でクスクスと笑っているのが見え、男は早くこの場から逃げ出したくなった。

昼休みを過ぎた頃、デスクに向き合っていると、男は自身の左手に見慣れぬ薄赤い斑点を見た。

「なんだこれ」

それとほぼ同時に、隣の席の朝倉が「なんですかそれ」と、男の左手を食い入る様に見つめながら言った。
男は頭を傾げながら、スーツの袖を捲り上げると、斑点は肘よりも奥、胴の方から広がっている事が分かった。
男はその瞬間、全身の毛が逆立つ感覚を覚え、勢いよく袖を払う様に戻すと、焦った拍子にそのまま椅子から転げ落ちてしまった。
朝倉は、やはり今日は帰った方がいいと勧め部長へアイコンタクトを送った。
部長が男の近くへ駆け寄り、状況を判断したのか、渋々、早退を命じた。

部署内がざわめく。

ーーー「お手数かけます」





家に着く頃には、男の体は燃えるように火照っていた。耳鳴りが止まず、耳元で空調機が爆音で鳴り響いている音がした。

帰宅して直ぐに、男は恐る恐る妻の三面鏡の前でスーツを脱いだ。
すると男の体には、胸元を中心に手首やみぞおちにかけて赤い斑点がなんとも恐ろしく伸びるようにこびり付いていたのだ。

「う、うわ」

男は鏡の前で腰を抜かしてへたり込んでしまった。
赤い斑点は胸元に向かって色を濃くし、手首やみぞおちはまだ色が薄かった。それはまるで身体中に椿の花が生っている、そんなおぞましい光景が男の脳裏をよぎった。
男は、きっとこれはただの風邪ではないと覚悟した。

「早く病院へ行かなくては」

震える手で、行きつけの病院の番号をぐるぐる回す。だが、震える指先が何度も違う数字を入力してしまう。その度に、一から数字を押し直し、また間違えては黒電話の数字がぐるぐるぐるぐる回る。

ぐるぐる、ぐるぐるまわる。

「病院へ行かなくては、早く先生に診てもらわねば。家にある薬ではきいてくれない。専門の強い薬を飲んで、そうすればきっとこの椿の花も消えてくれるはずだ。だから早く」

ーーー病院へ行かなくては。



そういえば、先ほどから庭で腐った犬が吠えていた。顔は半分骸骨になっている。体の至る所が禿げており、そここら緑色のカビの様なものが見えている。犬は、初夏の日差しに照らされながら、男に向かって吠え続けた。

「うるさい静かにしてくれ!」

いまだに数字が上手く回せない。男の視界が数字と共にぐるぐる回り始める。
犬の方を横目で見ると、庭に植えられた名前の知らない色とりどりの芽や蕾が、オルゴールの音と共に一斉に咲き始めた。
花はこんなに早く咲かないし、家でこんな朽ちた犬も飼っていない。はずなのに、男はそんな庭の光景に釘付けになってしまった。

遠くの空で、ギラギラと光る弾道が街へと一直線に落ちてゆく。それは音もなく弾け飛ぶと、ゴロゴロと地響きを起こし、煙と共に景色を削り取っていった。
大きなキノコ雲を彼方に生やし、激しい熱風が男を包んだ。
家の瓦が爆風でガラガラと吹き飛んでゆく。庭の犬や花が蝋のように勢いよく溶けていった。
男は熱風に包まれ、身体中の蕾が一斉に開花した。それは椿の花ではなく一つ一つが苦しみにもがく人の顔をしていた。顔が喋った。
「万歳、万歳、万歳」

男はそこで、意識を失った。






ーーー目が覚めると、男は真っ白い部屋で点滴を打っていた。
窓は開け放たれており、カーテンが風にそよいでいる。隣では、妻が丸椅子に座っていた。

「林檎よ、リンゴちゃん、タベナサイ」

女性でも男性でもない一種異様な妻の低い声が、さらに並べられた少し黄ばんだ林檎たちを示している。
男は、りんごよりも先に言うべき事がきっと山程あるのではないのかと、妻へ早々に愚痴をこぼしたくなったが、胸元から走る体のだるさが、そんな気持ちを萎えさせてゆく。

そこで、部屋の扉がノックされた。
しわがれた老人の声で「入りますよ」と聞こえた後に、こちらの返答を聞くこともなく下っ腹の出た頭の禿げたドクターがズカズカと入って来た。

「どうもこんにちは、如何ですか、具合の方は」

「僕はどうなったんですか、あれから、病名は」

老人はアッケラカンと目を見開き、ただの湿疹ですよと言った。

「アレルギーに反応したんでしょう。それが夏風と重なって、目眩や諸々の幻覚症状を引き起こしたのかと。まぁ、アレルギーも一時的なものだし、……見てごらんなさい、運ばれて来た時に比べれば、処置と点滴のおかげさまでだいぶ湿疹も消えて来ているだろう。」

その言葉通り、男が患者服の袖を捲り上げるとそこに例の蕾は無く、胸元を見ると蕾は色を薄くし殆どが消えかかっていた。

「そんな…、僕はてっきり何かの呪いにでもかかってしまったのかと」

「呪い?そんな馬鹿な。あとはちゃんと食べて寝れば大丈夫ですよ。そうだな、まぁ、明日のお昼頃には退院できるでしょう」

「バーゲンから帰ってきたら、アナタ茶の間で倒れてるもんですから、慌ててオデンワしたわ」

男は大した病気ではなかった安堵から、そうだったのかと力の抜けた声で吐き出す様に言った。妻とドクターへ礼の言葉を述べてから頭を下げた。
ドクターは安静にとだけ言ってその後部屋を去って行った。
扉が閉まった途端に、男は緊張の糸が切れた様に前のめりに起こしていた上半身が枕元へと崩れ落ちてゆく。
只々、白い天井が頭上に広がり、枕にあずけた頭を少し左へ向けると、そこでは妻が微笑んでいた。

「早く林檎食べなさい」

その言葉に、そっと左手を伸ばして林檎を取ろうとしたのだが、「行儀悪いからちゃんと起きて食べなさい」と妻が言うもので、男は肘をつき、今一度上半身を起こしてから、黄ばんだ林檎を一つ手に取った。

窓からは、病院の入り口玄関が見えた。
そこではたった今、ちょうど退院式たる行事が行われている最中だった。
入り口玄関から伸びる長いジュータンの上を、車椅子に乗った痩せこけた女性が優雅に進んでいる。ジュータンの左右縦一列に医者や患者たちが列を成し、万歳、万歳と両手を空へ上げている。桃色の紙吹雪が空を舞い、そのなんとも宗教染みた光景に男は少々度肝を抜かれたのだが、今は取り敢えず、皿に盛られた林檎を食べて少しでもこの体の回復を願うばかりであった。


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