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味覚の秋は手間の秋

収穫の秋。味覚の秋。美味しいものが多く並ぶ秋という季節が海士町でも深まりつつある。直売所の陳列棚からは、夏野菜が徐々に姿を消し、代わりにこの島で初めて顔を合わせる秋の食材たちが一つ一つと増えていく。夏野菜の中ではピーマンや獅子唐がしぶとく生き残っているので、夏野菜との別れを惜しむ私は彼らにしがみついている。最近は新生姜が並び始め、秋らしいと思っていたらすぐに見なくなってしまった。生姜好きとしてはもっとたくさん並べてくれるととても嬉しいのだけれども。

直売所に並ぶ野菜とは別に、秋の味覚を収穫したり採取したりするなど、実際に食材の現場に立ち会うと秋の味覚はとても手間のかかることであると気がつく。ひとつひとつの食材が自然にある状態から食べられる状態になるまで、莫大な時間がかかるのである。味覚の秋は手間の秋。以下、海士町で触れた手間のかかる秋の味覚のうちのいくつかを、少しばかり羅列をしてみる。

・栗

 木から落ちた栗のイガを足を使って開いてひとつひとつ手で収穫する。迂闊にもイガに触ってしまうとちゃんと手に刺さって痛い。明らかに虫食いのものはその場で省いていく。持ち帰り、ボウルに水を張って栗を洗う。浮いてきたものは中に虫がいるのではじく。鬼皮を剥いていく。包丁でおしりの部分に傷をつけ、そこからめくるように鬼皮を剥いでいく。これがけっこうかたくて手が痛くなる。むき栗として使う場合は渋皮を剥いていく。これは包丁で蕪の皮を剥くように剥くのだけれど、かなりかたい。私はこの作業で親指を切ってしまい病院で2針縫うことになった。渋皮煮にする場合は3〜4回お湯を替えながらアク抜きをして、一つ一つ丁寧に皮を掃除していく。食べるのは一瞬。


・銀杏

 イチョウの木の下に落ちた銀杏の実を拾い集める。まあまあくさい。水を張った容器の中に実をつけて、種から身が剥がしやすいようにしておく。種から実を剥がし水を替えながら何度も銀杏を擦って洗う。手がかぶれる可能性があるので必ずゴム手袋をして洗う。まあまあくさい。ペンチで種に割り目をつけ、種の皮を外していく。私はこの作業で爪がかけてしまい、未だにちょっと指が痛い。その後、水につけながら薄皮を外していく。これで見慣れた銀杏の形になるので、揚げたり焼いたりする。食べるのは一瞬。


・零余子(むかご)

 寺子屋のある場所から島の中心地に向かう道路の脇には、零余子が採取できる場所がところどころみつかる。原付でゆっくり道を走りながら目を凝らして零余子の在処をさがしていく。斜面や樹木に這う蔦の中に、ブルーベリー程度のサイズの零余子がポツポツと実をつけている場所があったら、原付を降りて採取する。1時間以上かけて道を走り、収穫できたのは両手に収まる程度の量だった。炊き込みご飯にして、一瞬で食べ終わる。

・胡麻

 収穫した胡麻にはゴミが混ざっているので、これを選別する必要がある。選別機や専用の扇風機を使うやり方もあるらしいが、そんなものは寺子屋にはないので、全て手作業で行う。バッドに未選別の胡麻を取り出し、指でゴミをはじいていく。この作業を始めると無限に時間が溶けていく。お店で安価に気軽に買える胡麻だけれど、これからはもっと大事に使おうと心の底から思った。

 これほど手間をかけずとも十分美味しい食材が巷には出回っていることを考えると、秋の味覚はコストパフォーマンスがとても悪い。莫大な時間をかけて食卓に上がるまでの作業をしたとしても、その時間に比べると実際に食べる時間は一瞬なので、割に合わないなあと作業をしながら思うこともそれなりにある。それでも私はこういった手間のことが好きになれそうと思えた。それは私自身が単純作業が好きなのもあるけれど、それよりもこういった営みが美しいと感じたからだと思う。一つ一つ時間をかけて食材と向き合っていく風景、時間、頭の中、それらが美しいと感じられるので、一見効率が悪くて無駄にも感じられるこういった手作業に価値を見出すことができる。それにこれらの食べ物には手間がかかっていると知っているとやはりその食べ物は格別に美味しく感じる。気持ちの問題と言われればその通りだけれど、実際にそれで美味しいと思えているのなら、気持ちの問題でも構わないと思う。

 味覚の秋は手間の秋。最近は家の台所に立つ時間が夏に比べて長くなった気がする。食材に向き合う人間の営みも含めての味覚の秋という視点に立つと、秋という季節のイメージに奥行きが現れてくる。

ある日のお弁当

文:島食の寺子屋生徒 岩崎