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カラダの時間を確保する

こんにちは、本多です。お寺の住職、大学での教鞭、それからテラエナジーの創業メンバーとして取締役をつとめています。私は小学校のとき、アメリカに住んでました。帰国子女、つまりリターニー。海外に行くことも多いのですが、日本から脱出できてノビノビできる喜びと、一方で自分の故郷はどこかなのか…嬉しさと喪失感に板ばさみになります。これまでの人生、自分なりに楽しくも、葛藤をかかえながら歩んできました。このnoteでは、そんな葛藤をできるだけ素直に言葉化しながら、自分自身が大切にしたいこと、それから経験から得られた気付きを書こうと思います。ゆっくりしたときに読んでもらえたらうれしいです。

いそがしいアタマ ひまなカラダ

オンライン講義やオンラインイベントが増え、家ですごす時間が圧倒的に増えた。

ネット中心の生活になり、アタマをつかうことが多くなった。ネット上のやりとりは余談や雑談がむつかしく、目的意識を持って言葉をつむがなくてはならない。大学講義は有用な情報伝達の場となり、以前に増して、偏差値向上のためのカリキュラムが組まれるようになったように思う。

教育だけではない。医療やインフラも目的を達成するための手段となりつつある。そこでの目的は「人生を長く生きる」こと。気付きを得ることや、生きる意味を自覚することではない。年老いた僕の父は、若い頃よく「長く生きるのが人生ではない。短くとも目覚めを得てこそ人生は尊い」と言っていた。父の言葉をひしひしと噛みしめる今日この頃である。

ネット中心の生活を1年以上送っていたら、いつのまにか、アタマの疲れを癒すためにカラダを休めるというルーティンにはいっていることに気付いた。カラダは疲れていない。アタマが疲れているだけなのだ。疲れているときのアタマの中は、新旧の情報が入り乱れており、膨大な情報を処理できず、一時期はオーバーヒートの状態だった。

「これはイカン」と思い、内田樹先生の凱風館での合気道の見学参加に申込をしようとメール作成したが、送信ボタンを押す勇気がなく、断念。最近は、気功研究家の大野亮雄先生のオンラインワークに参加しながら、自分のカラダと向き合っている。

習いごとをはじめるなら歴史あるもの

新しく習いごとを始めるなら、カラダにまつわるものにしようという思いがあった。しかも、東アジアの伝統に根ざすものがいいなという思いもあった。何百年も続く伝統には、身心のバランス感覚を調整する利点があるからだ。

伝統ということでいえば、僕は茶道のお稽古を続けている。お茶席に行くと5時間くらいかけて、わずか2服のお抹茶をいただく。どう考えても効率的ではない。ずっと座って、景色をながめたり、何気ない会話をしたり、季節を感じたりする。こちらから主体的に意志表示をすることはほぼない。ただその場にいるだけである。それなのに、参加すると充実感がある。

この不思議な充実感は何なのだろう。似た感覚は、宗教空間や歴史的な空間、あるいは自然の中に身を置くことで得ることができる。大きな世界に接続できているような一体感であり、カラダに内在する敏感なセンサーが目を覚ますような感覚だ。

昔から受け継がれてきた習いごとは、入門の敷居こそ高いものの、奥深いなとつくづく感じる。

現代人は視野がせまい?

昔の人のものの見方ということで、思い出すことがある。大学院生の時に、ガンジーの研究者の長崎暢子先生の講義を受講した。これまで受けた講義のなかで一番学びの多い講義だった。

講義ではアーネスト・ゲルナーのNation and Nationalism(『民族とナショナリズム』)を輪読した。同書の中でゲルナーは、昔の世界について次のように記している。

「その一つ一つが宇宙であり、意味に満ちていた」

この記述について長崎先生は次のように解説された。「今の人よりも、昔の人のほうが、視野が広かったということね」。

長崎先生のこの言葉を聞いて、衝撃を受けた。今は世界の隅々まで人間の影響がおよび、人が宇宙にまで行ける時代である。それにもかかわらず、昔の人のほうが今よりも視野が広かったというのだから、それは逆ではないないかと驚いたのだ。けれどもたしかに、視野の範囲には違いがあるかもしれない。

昔の人のほうが今よりずっと短命だったのに、見出した時間の単位は圧倒的に長い。仏教には「劫(こう)」という時間の単位がある。およそ4キロ立方㍍の岩に、1年に一度、天女がやってきて羽衣(はごろも)で岩を撫でて、岩1個がすり減って無くなるのが一劫である。想像もつかない時間の単位である。ちなみに阿弥陀仏は、五劫というとてつもない時間を思案し、衆生救済の道筋をたてたとされる。

仏教に限ったことではない。古来より宗教は死後の世界を説く。死後というのは、とてつもない時間感覚のなかで浮き上がってくるものだ。けっして昨日今日で能率的に作られるものではない。

一方、私たちの住んでいる社会はどうか。平均寿命は昔と比べものにならないほど延びたにもかかわらず、そこでの時間の感覚は広がるどころか、細かくなり、一分一秒を競うようになった。さらに時間は分節され、細かく刻まれた短い時間のパッケージをいかに自分に都合よく色染めするかに奔走するようになった。そんな自己利益を追い続けなければならない圧迫感の結果、アタマが疲弊しているようにも感じる。

昔の人が見出した長い時間の思想の源流には、カラダの感覚があるのではないか。カラダをとおして自分に与えられた時間のはかなさの実相を知るからこそ、大きな世界が眼前にあらわれでたのではないか。さらには、その世界との接続を、カラダをとおして感得する思いにいたったのではないか。

今日、カラダの感覚をやしなうには、時間がカギを握っているように思う。カラダを見つめる場に身をおく時間である。

浮いた20万をどう考えるか

突拍子もない話だが、昨年のお寺の電気を算出してみた。

2020年2月からテラエナジーを利用しはじめたところ、前年と比べて一年間の電気代がおよそ20万円近く安くなっていた(リスクの高い市場連動型プラン)。僕のお寺では、ここ2年、電気の無駄な使い方を徹底して見直した。その結果、電気使用量が減ったことでこの金額差になったことも影響している。(あわせて、杉の木20本が吸収する二酸化炭素の排出を、毎月おさえていることもわかった)

ただ、それでも20万円という金額差にはそっちょくに驚いた。この金額をどう考えればよいだろう。

そこで僕は、「20万円分、働かなくてよくなった」と考えるようにしてみた。つまり、労働しなくていい時間が確保できたと考えてみた。

さらにはその時間を、家族や知人との充実したコミュニケーションにあてたり、美術鑑賞をしたり、自然に触れ合たり、本を読んだり、宗教的な感性にアクセスしたり、カラダにまつわる時間に充てるようにしてみた。そうした時間を確保することで、生きる意味や人生とはといった、労働中心の生活では得ることのむつかしいセンサーを高めることにあてることができると思ったからだ。

低成長時代において、労働に奔走するだけの生き方はふさわしいとはいえない。社会の構造的課題を溶解しつつ、生きる上でのゆたかさを見つめなおすこと。テラエナジーはそうした方向性を見つめている。

電気の使い方や考え方は自由である。ただ、テラエナジーが提供する電気の時間は、人生の意味や質といった個々のゆたかさに寄与することにつながればなと思う。それはまた、電力会社という人の命にかかわるインフラ事業にかかわる者として、忘れてはならない視点であると思う。

本多 真成(ほんだ しんじょう)
1979年生まれ。大阪八尾市の恵光寺住職(浄土真宗本願寺派)。龍谷大学大学院を修了し、私立大学の客員教授をつとめる。院生時代は「環境問題と仏教」の思想史研究。専門は宗教学。TERAEnergy取締役。

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