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気候危機を根っこから考える

こんにちは、本多です。お寺の住職、大学での教鞭、それからテラエナジーの創業メンバーとして取締役をつとめています。僕は小学校のとき、アメリカに住んでました。帰国子女、つまりリターニーでもあります。仏教×電気×世界。毎日考えることでいっぱいです。noteでは、日常で感じたことや考えたことをできるだけ素直に言葉化したいと思います。ゆっくりしたときに読んでもらえたらうれしいです。

自我から「大きな自己」へ

イギリスのグラスゴーで開催されたCOP26が閉幕した。二酸化炭素の削減に向けて各国首脳が集まるなか、前向きな合意には至らなかった。COPのような気候変動対策の枠組みについての各国首脳による話し合いは、今後の温暖化情勢を見据えるうえで極めて重要だ。今回、未来世代に課題を先送りすることになったことは、再エネ普及を目指すテラエナジーとしても残念な結果だった。

一方、私たち人間の思考パターンについても、関心の目を向けたい。

僕はノルウェーの哲学者アルネ・ネスのディープ・エコロジーを仏教思想との比較で研究してきた。ネスは、エコロジーに宗教や哲学が必要だといち早く提案した人物だ。一方で、気候危機に関する政治的な課題にも積極的に取り組んだ。いわば万能のエコロジストなのだ。ちなみに彼は特定の信仰に酔心していたわけではない。

ネスは、自己selfを4つの段階にわける。自我(Ego)から大きな自己(Self)である。そのうえで気候危機への長期的な取り組みは、大きな自己(Self)から始まると語っている。

大きな自己(Self)とは、自と他が融和し、私と私ではないものとの境が溶けてもはや自分がどれかわからななくなるような場のことである。そこから共感や共振のムーブメントが生成するという。

今回はこのところを考えてみたいと思う。

「させていただく」

日本の仏教界では「させていただく」という言葉をよく耳にする。

「させていただく」の前文には、≪仏さまのお陰によって≫あるいは≪おかげさまで≫が隠されている。だから「させていただく」とは、自分の行為が自分のものではない、という表示の仕方なのだ。

言い換えれば、仏教者は(それが自分の行為であっても)行為を自分に帰属させることをしない。自分の行為でさえ、自分の手柄にはしない、というスタンスを貫くのだ。

一方、この表現は嫌われてもきた。というのも、あまりに受け身な表現だから、無責任な印象を与えかねない(責任Responsibilityについては検討が必要である)。そのため、近年ではこの表現を使わない仏教者が増えてきたようにも思う。

「させていただく」に嫌悪感を持つ人は、きっと「主体は動詞を支配する」という発想にもとづいて思考しているのだろう。「Aさんが、Aさんの行為をコントロールしている」という思考だ。あたりまえのことのように思える。

ただ、ここのところを考えてみたい。本当に「私が私をコントロールしている」のか?

私が私をコントロールする?

熊谷晋一郎という脳性麻痺を抱えた東大准教授で医者の人がいる。熊谷さんが「多飲症」について書いていた。

「多飲症」とは、水を大量に飲んでしまう症状のことだ。この症状をもつ人は、数分で10リットルくらい飲むこともあるという。一気に水を飲むから、身体や脳がむくみ、呼吸が止まったり、痙攣をおこしたりする。最初は飲まないよう注意するのだが、やがてトイレの水を飲んだりしてしまう。飲むことが止められないのだ。

そこである病院で「申告飲料制度」という治療法を設けた。これは「今から水を飲みます」と申告してから水を飲む。冷やしたおいしい水を「おいしいねぇ」と言いながらスタッフルームでみんな一緒に飲んでもらう。そうしたところ、多飲症の症状は軽減していったという。

宣言して飲むのと、隠れて飲むのではなにが違うのだろう。熊谷さんは次のように説明する。

一方通行の関係ではなく、水も変化するが飲んでいる「私」の方も変化して、水を味わう者としての自分が立ち上がってくる。それがスタッフルームで起きたことではないでしょうか。 『<責任>の生成』377-378頁

多水症の人は、それまでは自分が水を身体に取り込むことによって得られる果報を望み、水をガブガブ飲んでいた。つまり、自分という主体が水を支配していたのだ。これは「主語は動詞を支配する」という構図でもある。水を道具として扱い、自分のために利用するからだ。

ところが申告して飲むことで、それまで道具として支配していた水が「味わう」ものに変わる。つまり、水を味わう自分に構成されるのだ。この瞬間だけかもしれないが、少なくともそれまで水を従えようとしていた私にはない感覚を得ることは、多水症の人にとって非常に重要だったのだ。難しい言い方でいうと、主客の境界線が溶けような体験だ。

こうした構成は、何も多飲症に限ったことではない。私たちの日常にありふれている。たとえば杖をついて歩く人がいる。その人は、杖がなければ歩くことができない。このときその人は、杖をつく身へと自らを変化させることによって歩くことができる。杖を使う身に自らを構成しているのである。自転車に乗る、字を書く、箸を使って食べる・・・私たちはさまざまに自分を変化させている。

身体との関係だけではない。僕は経験していないが、子どもを育てるというのも似ているのではないか。子どもの誕生は、子どもを育てる身へと自分が構成するのだ。

私たちは環境に合わせて構成をすすめてゆく。ここでは、「私が私をコントロールしている」という捉え方を問題にしてきた。結果的に見えてきたのは、自分は他からの力(はたらき)を日常的に経験しているということだった。それを感じ取り、言語化するセンサーが、鈍っているだけのことである。

現代では、自分で自分をコントロールするのが「あたりまえ」のように勘違いされている。実際には、行為する力は、自己の外から与えらているかもしれないのだ。

この思考パターンの展開は、気候変動を根っこから捉えるうえでも重要だ。

私の主(ぬし)は?

ネスは登山家としても有名だった。山小屋で読書し文章を書くのが、彼の日課だった。

彼は「山の呼び声が届く」という言葉を残している。山の呼び声がその人に届くのだ。呼び声が届いたとき、その人は山の呼び声と一体になる。呼び声によってその人は、山と一体になる様態に構成されるのだ。

ネスはそんな身体感覚をエコロジーの基礎に据えることを提案した。そこから、過剰な消費傾向や政治体制を課題視していった。つまり、あらゆる現象は繋がっている。それなのに人間は、繋がりから断絶した自己を承認しようとする。ネスにいわせればそこにこそ気候危機を解決するうえで根っこがある。

ネスにいわせれば、気候変動問題を考えるとは、私の主(ぬし)を探しをしてみることに始まる。私には主なるものが存在して、それが私の行為を支配しているのか?と。ネスの場合、その答えは「大きな自己(Self)」が教えてくれるというものだ。

ちなみに仏教では、自己さえも自分のものではないと説く。

「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。し かしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか
              『ブッダ真理のことば 感興のことば』19頁

テラエナジーは、電気の販売をとおして二酸化炭素の排出を抑制したいという思いをもって起業した。一人でも多くの人が無理なく、こころ豊かに生活できることの実現を目指して、これからも再エネの普及と社会を豊かにする活動を幅広く、下支えしてゆきたい。

本多 真成(ほんだ しんじょう)
1979年生まれ。大阪八尾市の恵光寺住職(浄土真宗本願寺派)。龍谷大学大学院を修了し、私立大学の客員教授をつとめる。院生時代は「環境問題と仏教」の思想史研究。専門は宗教学。TERAEnergy取締役。

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