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乱立する世界

私に見えるものとは影響と志向性により変わるにしても、そうとしか捉えられないものとして確立されうる程明瞭に訴えかけてくるものが作り替え得るもの(a)として初めて私の世界に存在することを許される。それは発生するものである。つまり無意識の選定、反応した結果は無論選べないが、だからこそ生まれるものに完全な差異がある。つまり感覚する私の記憶たちとその時の感覚から外れた物(a)があるということだ。純然たる差異がそこにはある。つまり認識上の差異ではなく事実として差異が存在するという話である。これが動かない世界を自分で動かしていく必要性にゆとりを生じさせる。少しの動き、例えば良い映画を見るだのもろもろのシーニュに属するものであれ認識される、感覚されるものということになる。それは前述の世界ということになるだろう。では、なぜ動くのか。世界から発生するものに差異を見出し、感覚し、驚き、、etc全ての人間的動きを感じるように、その動きが好きなのだ。しかし我々はその動きをそれほど好きなのだろうか、永続する志向性など外在する志向性など残念ながらないのだ、それを永続するであろうと感覚するほどの衝撃は満ち満ちている。それらを動かすのは私なのだ。タイミングの良い発生と少しの動きが必要なのではないだろうか。他者に揺り動かされる問題は他者が力を持つのだ。では、私にできることは限られている。じゃあせめてできることを、というのは自己満足でしかないだろう。限りなく自己の世界は改変可能であるが自分でやるというのはどれだけの力と反復、そして勉強が必要なのだろうか。大変そうなので少し手を貸してやる。というような具合だろう。すべて心が作り上げた道徳規則どうりにできるのは物語のかっこいいヒーローか何か一部大切だと感じれるような可能性を秘めた発生のきかいをやめている。あたりまえなのでつまらないとしている私を、探している形を置いて先に進もうというのだ。これが私なのか。全てやっちゃおうではないか。タイミングの良い発生は、その驚きはおのずと現れる。それが発生する条件は無意識の領域で、私のあずかり知らぬところで着々とサプライズを進めるのだ。その人物は私にマロニエの樹の根の実情を嬉々としたへりくだった態度でどうにもならぬ顔として掌に合わせて隠しこれは耐えれまいと手品をだすメフィスト。はたまたその人物は今では青春の体現となってしまった、「分かるよ、どうにもできなかったけどがんばったんだよね。許してあげる。」あの人なのだろうか。私に動きをもたらすメフィストと、安息の地を与えるあの人、どちらもいっぺんにかっさらおうではないか。のらりくらりと発生に身を任せ動きたいように足を躍らせる。魅力的な人だろう。めんどうだと放り投げ訳の分からぬおかしなものを反復しまた気が向いたら外に出ようか。こんなにいいものが書けるなんて私は知らなかった。

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