「犬もあるけば棒に当たる」の新しい意味を考えてみた

「犬もあるけば棒にあたる」ということわざがあるが、昔から釈然としてない。ほとんどの犬は棒くらい避けられるのではないだろうか。僕は昔ゴールデンレトリーバーを飼っていたけれど、あのトロいゴールデンでさえ、棒くらいは避けていたはずである。
と、ここまで書いて嫌な予感がしてきた。そもそものことわざの意味を勘違いして覚えていやしないだろうか。

こういうときはインターネッツに聞くのが一番である。

1 何かをしようとすれば、何かと災難に遭うことも多いというたとえ。
2 出歩けば思わぬ幸運に出会うことのたとえ。

コトバンクから引用

調べてみてびっくりしたけれど、1と2で真逆の意味であった。どんな経緯でこんなことになったのだろう?

先ほど引用したコトバンクには

個々の諺の意味については古来から議論が多い。たとえば,〈犬も歩けば棒に当たる〉という諺は,すでに江戸時代において,思いがけず禍に出会う意と,幸いに出会う意の両様に解釈されていた。このような意味の多様性は,(2)の人生の機微を伝える教訓的な諺に多く,逆に諺の魅力ともなっている。

なんか最後いい話風にまとめているが、さすがにふわっとしているので他のサイトを当たってみると以下のようにある。

棒に当たる」とは、人に棒で殴られるという意味。
本来は、犬がうろつき歩いていると、人に棒で叩かれるかもしれないというところから、でしゃばると災難にあうという意味であった。
現在では、「当たる」という言葉の印象からか、何かをしているうちに思いがけない幸運があるという、反対の意味で使われている。
『江戸いろはかるた』の第一句。

故事ことわざ辞典より引用

よくある意味が転じたということだそうだ。「情けは人のためならず」的なあれですね。一応解説しておくと、もともとは「人に情けを掛けておくと、人格修行なども含めて、結局は自分のためになる」という意味が転じて、「人に情けを掛けて助けてやることは、結局はその人のためにならない」となってしまったということである。
「人のためにはならない」の部分は共通なので、これは勘違いされる運命にあったという気もする。情けが人のためにならないのは、その通りな気もするので余計にむつかしいですね。人のためでなく自分のためにするんだという姿勢が大事なのだろう。
これは「金を貸すなら、返ってこないものと思え」とも近い。額面通りに貸すなって意味で受け取ってもいいんだけれど、「返ってこなくても良いと思うような相手にしか貸しちゃいけないよ」っていう姿勢の話をしているのが構造的に同じだ。

話を「犬も歩けば棒に当たる」戻すと、棒にあたるというが災難なのか幸運なのかよくわからない。棒に当たる程度で災難は言い過ぎじゃないかという気がするし、犬というのは棒をみつけると喜んでくわえて走るものであるから、むしろ幸運な気もする。とはいえ、棒ではなくてボールや食べ物をもらったり、遊んでくれる人や犬にエンカウントする方がずっと幸せだと思う。

強引だけれども、ここでもうひとつ転じて、コップの水を半分「しか」ないと思うか半分「も」あると思うか的なことざわにすることを提言したい。

どういうことかというと、犬も歩けば棒に頭をぶっつけてちょっと痛い目にあってしまうという「しか」的な意味と、犬も歩けば棒をみつけて遊ぶくらいの小さな幸せは見つけらるという「も」的な意味をもたせて、その人の心持ちを測るようなものにするということだ。

「あなたは犬も歩けば棒にあたると聞いてどういう感想を持ちますか?」なんて聞いてみるのはどうだろう?

犬好きの僕としては、犬と一緒に歩いて棒に当たるって幸せなイメージしかわかないから、さらに転じて「意識すれば、日常に潜んでいる『犬が棒をみつける」くらいの幸福は見つけられるはずだよ」なんて意味にすると素敵じゃないかと思う。

「素敵じゃないか(Wouldn't It Be Nice)」

と言いながら、日常に潜む切ない瞬間を切り取る『切なインスタ』という企画を初めてしまったので、日々切ないことを探している。

今日は切ないことを忘れて、犬が棒を見つけるくらいの幸せを探してみよう。

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