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N研向け 不登校の考察③〜学校におけるリモートの功罪


 斎藤環氏は、人と人が出会うこと。その場に居合わせること。ライブであること。Face-to-faceで話すことを「臨場性」と呼び、臨場性は「暴力」「欲望」「関係」であると考察している。(齋藤環『コロナ・アンビバレンスの憂鬱―健やかにひきこもるために』晶文社、2021より)
 人と接することは、大なり小なり肉体的/精神的に他者に侵襲されるということで、生物学的にも他者に侵入されると不快感を感じるパーソナルスペースがあることは自明である。
 斉藤氏は、人と接した後に、無感情でいることはあり得ない。何らかの“快”又は“不快”を感じ、人と出会うことで、感情が揺り動かされることは不可避と捉えている。このような侵襲を「怖い」「苦痛だ」と感じる人が一定数いることは事実であり、発達障がいの当事者が対人面で感じる苦痛(ハリネズミのジレンマに近い?)である。そこまでの苦痛ではなくとも、会ってしまえば楽しいのは分かっているのに直前まで何となく億劫に感じてしまうことは誰にでもある。この感覚が、個的領域を侵襲されるある種の暴力性への自然な反応と言うのだ。
 コロナ自粛の期間が長くなることで「なんとなくやる気がわかない」等の無気力さを訴える人がいるが、コロナ休校やコロナ療養をきっかけに不登校となった児童生徒からもそのような訴えが多いように感じる。
 本人のやる気が回復するまでそっとしておこう…という対応では、その状態から回復することは難しい。斉藤氏の言葉を借りるなら『個的領域を適度に脅かされることなくして、感情は揺れない。ZOOM等のリモート環境で情報のみを伝達しあうだけでは、個的領域は侵襲されない』のである。
 つまり、人との接点が減ったことが原因で無気力に陥っている場合、ほどほど”に他者に侵襲されること、感情を揺さぶられる体験が回復には不可欠であると言うのだ。
 不登校に置き換えて考えた時ら人と会うことを“暴力的だ”と感じる児童生徒が一定数いるということは念頭に置き、リモートのメリットを最大限活用しながら、それでも直接人と接する仕組みを意図的につくることが大切だと感じる。
 斉藤氏は『教育には絶対にリモート化できない領域がある』と述べ、『対面とリモートをハイブリッドに組み合わせた、柔軟な教育や就労のスタイル』を熟考するよう促している。
コロナ禍以降の不登校からの回復や予防には、この視点が欠かせないと感じる。

 斉藤氏はその重要な要素として『不確実性の耐性』を挙げている。リアルに人と接する中では、自分が思うように動けない、期待した反応が相手から返ってこない、予想していた結果と違う結果になった等、教科書や知識だけではままならない場面がある。『それは、教科書が間違っているということではなく、現場においては、さまざまな法則や原理が教科書とは違った見え方をすることがたびたびある、ということ』で、法則や原理が現れる際には『不確実性という幅ないしグレーゾーンがあり、その幅についての感覚―まさに「車幅感覚」のような―込みで運用されてこそ、知識は有用なものたりうる』と言うのだ。『知識の理解だけならリモートでも十分に可能だが、―中略― 身体を介した学習によって、知識は受肉し「活きた知識」となる。』と述べている。

 教室で他者と関わることで、初めて「知識(=情報)」が「活きた知識」に変わるとすれば、やはり学校という集団が果たす役割は少なくないと思う。そのための学級経営に必要な要素は何かと考えると、やはり「安心感を持てる人間関係」に尽きると思う。場と時間を多く共有するうちに、自分と人とは違うことに気づく。その違いを責めたり変えようとしたりせず、そのままで良いと思える感覚に至ることが大切だ。
 この感覚は果たして自ずと身につくものなのだろうか?小学生、中学生にとってはどうしたって導き手は必要だろう。単純に登校していれば、学級に参加していれば自然と「安心感」を得られる訳ではない。やはり、そのための学級経営があって然るべきと筆者は考える。
 直接対面の暴力性を認めつつ、うまくいかないとこと(=不確実性)にこそ価値を見出す学級経営とはどんなものか?
 考察②でも述べた、児童生徒同士の接点をたくさん作ることに筆者の思いは回帰するのです。

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