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ときを超えて、アンダルシア田舎で夫婦危機を救うかもしれない三木先生の『内臓とこころ』

出会い


 
「日本語の本が数冊あるから、取りにきてくれる?」
 
夢かしら、と思った。
ここは、スペイン、アンダルシア田舎。
そんな電話がかかってきたら、すぐさまかけつけるしかない。
この町では、日本語で書かれた本は手に入らないからだ。
 
私も随分徳を積んだものだと、スニーカーを履き、文字通り「走って」先輩の家まで行った。
 
先輩は10冊ほどの本を用意してくださっていた。
小説やハウツー本やらいろいろあったが、その中でもひときわ目を引いた1冊がこちらだ。


夢に出てきそうだ。



私はホラー系の映画や本を意識的に避けて生きてきている。
タイトルもろくに読まず、これは返そうと思った。
正確に言うと、返します、と言ってしまった。
 

「全部もらってくれないと困るわ」
 
引っ越し予定の先輩が言う。
 

全てありがたく頂戴した。
かくして、我が家に三木先生の御本がやってきた。
 
 
それから3年。
 
そう、3年。
ほんのつい数週間前まで、三木先生の本を開くことはなかった。
今の私が3年前の私に会ったら、でこぴんのひとつでもお見舞いしてやるところだ。
 

三木先生との再会は突然に


 
先日、夫がコロナに感染した。
思い当たる節、ありありだ。
 
特技「ソファで寝落ち」を持つ夫は、夜に故郷のドラマを見るのを楽しみにしている。
ここのところ、数週間にわたりドラマを見ながらソファで寝落ちを続け、そのたびに怒られていた。
私に。

 
「睡眠が足りないですねえ」
 
そんなことを何日か言った後、ある日、喉が痛いと言い出した。
熱もあるかもしれません、というので抗原検査をした。
 
陽性とわかった瞬間、夫は廊下で土下座をした。
 
「悪い子でした。悪い子でした!申し訳ございません!」
 
何回このくだりを繰り返すのだろうというぐらいのいつもの夫の風邪ひきパターンだ。
 
夫は仕事休みの連絡をし、私はスーパーに買い出しに行く。
 
私の抗原検査結果は陰性。
自宅隔離をしながら夫の食事を準備し、仕事を続けた。
 
5日ぐらいして、今度は私の喉が痛くなった。
 
冗談だろうと思いながら、抗原検査をした。
 
うっすらと線が見える。
 
地元の友人医師に写真を送る。
 
「ねえねえ、これってそういうこと?」
 
「そうよ、唐草」
 
だーんだーだだーんだだだーんだーんだーん
頭の中で『帝国のマーチ』が鳴り響いた。
 
諦めの悪い私は、翌日、もう一度検査をした。
 
もっとくっきりした線が出た。
 
 
夫とは別の部屋で隔離を始めた。
夫はソファのあるリビング、私は寝室だ。
だいぶん回復していた夫に、何か日本語の本を持って来てほしいとお願いした。
 
宮沢賢治ファンの夫が部屋の前まで持ってきてくれたのは、こともあろうに三木先生の本だった。
 
だーんだーだだーんだだだーんだーんだーん
 もう一度、『帝国のマーチ』が流れた。
 

夜更かし夫と早起き妻の同居


 
寝室には私と三木先生二人きり。
 
熱にうかされながら、オシッコの話から始まるその本を少しずつ読んだ。
どうやら、子育てに関する講演をまとめたものらしい。
1982年の『内臓のはたらきと子どものこころ』を元本としたとあるから、随分昔の講演だ。
子どものいない私が読んでいいものか。
半信半疑でページをめくる。

正直に言うと、最初、私は何を読まされているんだろうと思った。
しかし、胃袋感覚の箇所にたどり着いたとき、ページをめくる手が止まった。

皆さん方の見ておられる子どものなかにも、夜がきたら元気になって、いつまでも起きている。朝はいつまででも寝ているというタイプがいるでしょう。いわゆる「日リズム」の波が遅れている。

『内臓とこころ』三木成夫


はい、います!いますとも。いつまでも寝ています。
もっとも、私の見ているのは子どもじゃなくて、夫だけど。
 

ところが、これは大人になってもなかなか直らない。いわゆる朝が弱い、というあれです。けっして気持ちよく目があかない。起きてもなんだかグッタリしている。しかし、これですよ。夕方から夜になると、しだいに生き生きしてくる……(笑声)。寝るのが惜しいんですね。 

『内臓とこころ』三木成夫


三木先生は時空を超えた透視の才能をお持ちだろうか。
 
「離婚届にサインさせたかったら、早朝にお願いします」
 
と言うぐらい、完全な夜型の夫は、朝は頭がまわらないらしい。
だから、早朝、離婚届の用紙を枕元に持って行ってサインしろといったら、多分何もわからずにサインしてしまうだろうと言う。
 
目覚まし時計を何度セットしても自分で止める。
「今日も目覚まし時計が鳴りませんでしたね」とか、「わざとじゃないんです」を口癖としている。
結果的に、私が起こすはめになり、当人はぼんやりしたまま出かけるので、午前中なんかの仕事はどうやってこなしているのかわからない。
18時ごろ、冬眠から目覚めたかのように少しずつ活動的になる。
20時ごろからは、今から私の時間ですよ!と言わんばかりに歌ったり踊ったりを始める。
22時頃からはエネルギー全開で、だんだんめんどくさい感じになってくる。夕飯を22時から23時半ごろに食べた後、ドラマ鑑賞、そのままソファで寝落ち、朝起きられないコースへとつながる。
 

ところが、これとちょうど正反対です。朝はパッと目がさめ、元気はつらつ、お腹をグーグー鳴らせながら唄うたっている(笑声)。夜はもうメシが済んだら舟を漕いでいる(笑声)。だから、夜なべ仕事が辛い……。もう不機嫌というより半分寝ている。 

『内臓とこころ』三木成夫

はい、これは私です!
シエスタの国スペイン、ましてやアンダルシア田舎に住んでいるとはいえ、7時には仕事を始める。
朝食後、14時ごろまでが私の120%アクティブな時間だ(スペインの昼ご飯は14時ごろから)。
特に午前中は活動的で、いくつかの作業を同時にこなすのも問題ない。
その後、夕方にかけて効率はゆるやかに落ちる。
22時ごろには既にあっちの世界にいってしまい、まるで使い物にならない。
 
完全な朝型人間の私と、完全な夜型人間の夫。
 
生活リズムが合うわけがない。
 
 

夜更かしの朝寝坊は罪か


どうも、この社会で生活する以上、夜行性の体質というものは、まさに惨憺
たるものです。昔から、“夜ふかしの朝寝坊”は、不道徳の最たるもので、“早起きは三文の徳”などといわれてきましたが、これなぞ長い経験から割り出した、ほんとうの親心というものでしょうね……。 

『内臓とこころ』三木成夫

この箇所を読んで、ハンマーで頭を殴られたようなショックを受けた。
 

何度か夫に言われたことがある。
 
「夜更かしは罪だと思っているのではないですか」
※決して「寝落ち」とか「朝寝坊」と言わないところが、夫のポイントでもある。それを言ったら負けだとわかっているからだろう。
 
「罪」とは思わないまでも、夜更かしで朝起きられず、仕事に遅れかけたり、友人との約束に地元スペイン人よりも堂々と遅刻したりするのは、よくないと考えていたのは事実だ。
 
そうだ、確かに私は、夜更かし朝寝坊を「よくないこと」と認識していた。
 

感染後、ずいぶん回復した夫は嬉しそうに言った。
 
「これからは、やっと私があなたを看病できます!!朝ご飯も任せてください!」
 
しかし、翌日、再び「ソファで寝落ちからの朝寝坊」で、朝ご飯はいつまでたっても出てこなかった。
その翌日も同じだった。
そんな日が続き、熱でふうふう言いながらベッドにいる私はイライラが募ってきた。
 
夫が寝込んでいるとき、私は毎日必死に看病をした。
しかし、どうだろう。
今、熱でふうふう言っている私に、お茶や朝ご飯は出てこない。
ふらふらの私は立ち上がり、自分用にかろうじて食べられるりんごのすりおろしと夫の朝食を準備し、夫のいる部屋をどんどん叩いて起こしていた。
 

勘弁してくれ。私の朝食は出てこないのか。
 

こういうとき、私はなんだかなあと損したような気持ちになることがあり、もうちょっと早く起きてくれたらいいのだけどと思うこと何千回だった。
 
 

罪の刷り込み


今回、夫の感染理由は本人も自覚している。
ソファで寝落ちと寝不足が続いたことで、免疫力が低下していたのが原因だろう。


しかし、ついさっきまで勘弁してくれと思っていた私は、三木先生の本を読み始めたことで、自分の中に???がたくさん生まれてきた。

世間的には、これもさきほど“親心”と申しましたが、かれらになにかレッテルを貼ろうとする傾向が見られますね。どこかに欠陥があるのではないかと……。 

『内臓とこころ』三木成夫

ちょっと待ってほしい。
少しタイムアウトをとり、りんごのすりおろしを食べてから、再び本を開いた。

この頃には、熱とは別の理由でふらふらになっていたように思う。

そうか。知らず知らずのうちに、私は夜更かし朝寝坊夫にレッテルを貼っていたのか。
 
朝寝坊はだらしがない。

先ほどの「“夜ふかしの朝寝坊”は、不道徳の最たるもの」にもあるように、知らないうちに私の中に刷り込みが行われていた。 

早寝早起きはいいことだ。
夜更かし朝寝坊はよくない。

でも、もしかすると、物事はそう単純じゃないのかもしれない。

私は何だかよくわからなくなってきた。
 

ゴキブリの出勤時間と日リズム


 
「日本では夜更かしは罪と考えられるかもしれませんが、私の育ってきた国では必ずしもそうとは言えません」
 
こういって、自称コスモポリタンの夫は熱弁を振るう。
 
しかし、その後の三木先生の説明を読むと、私たちは両方間違っていることになる。
 
三木先生は、突然ゴキブリの話を始める。
 
ゴキブリは、夕方出勤で夜中12時まで働くらしい。
12時になると、寝床へ帰って寝る。
このリズムは古生代から続いている。
昆虫はどうかというと、なんと、昆虫にも朝型と夜型がいる!
蝶は朝型、蛾は夜型。
植物にも、例えば花にはそれぞれの開花時間がある。
動物にも朝型、夜型がいる。

これは「日リズム」と呼ばれるもので、生きとし生けるものそれぞれが日リズムを持っているのだそうだ。
そのリズムの波は遺伝体質により異なると三木先生はおっしゃる。
だから、人間も、人によってさまざまな日リズムのパターンがあってもおかしくないと。

私は興奮がおさまらなくなってきた。


さらに、三木先生は、朝型、夜型を「胃袋感覚」というテーマで切っておられる。

先生によると、もちろん胃袋にもそれぞれの顔つきがあることになる。
朝ご飯のときの胃袋の「顔つき」。
夫のそれは寝ぼけ眼で、私のは身をくねらせて待ち構えているらしい。
寝ぼけ眼の胃袋を想像したら、おかしくなった。


そんなわけで、日リズムには、単に環境だけでなくて、体質や、なんと胃袋も関係していることになる。


夫と私の日リズムは明らかに違う。
現代社会では、夜更かし朝寝坊はよいことと見なされにくい。

もしかすると、夫は夫で自分の日リズムをわかったうえで、現代社会の生活スタイルに適応しようと何十年とがんばってきたのかもしれない。
そんな苦労を知らずに、私は夫の「ソファで夜更かし寝落ちの朝寝坊」を単に「だらしがない」と冷めた目で見ていた。
実際、彼自身は先生がおっしゃるように「涙ぐましい努力」を重ねてきた経緯があるかもしれないのに。

そうだとしたら、大変なことだと思った。

あなたの年リズムは?ハラワタの声を聴け


三木先生の話は、冬眠現象の話を経て、「年リズム」の話に移っていく。
 
人間は恒温動物で休眠状態の期間がない。
つまり、冬眠をせずに一年中稼働している状態だ。
でも、生命記憶としての休眠はどこかに残っている。
遺伝子は生きているからだ。

だから、人によって、一年の中で調子のいい季節、悪い時期もさまざま。
朝型、夜型が日リズムだったのに対し、こちらは年リズムと呼ばれる。
この年リズムも一人一人異なるらしい。
確かに、季節の変わり目に体調を崩す人、冬でも半袖で走り回り風邪もひかない人、秋からの肌の乾燥に悩む人、夏が大好きな人などいろいろだ。

そして、この日リズムや年リズムは、なんと太陽系の運行法則と関係があるという。

夜更かし朝寝坊の話が宇宙までいってしまった!
 
おまけに、先生によると、胃袋自体が太陽系の運行に「共鳴」しているんだそうだ。

えらいことになった。



翌日から、夫を起こすのをやめようと思った。
 

 
子どもの性格形成には、幼いころからの生活環境や両親の影響があると専門家は言う。
しかし、三木先生は、そのような「外部環境」だけでなく、子ども本人の「内部環境」、つまり体質にも注目すべきだとおっしゃる。
むしろ、内部環境を知るほうが先だと。

体質のなりたちには、長い長い歴史がある。
そして、体質は人によって異なる。
胃袋の顔つきも同じではない。

朝寝坊とか夜更かしに、そんな深い話が隠れていたとは知らなかった。
 

この章を読み終わり、本を一旦ベッドに置いた。
 
おいおい、夫に聞きたいことがいっぱいあるぞ。
 
つまり、私も夫も間違っていた。
ともすれば、夜更かしがいけないと決めつけたり、逆に夜になるとすぐ眠くなる私は子どもっぽいと言われたりし、その理由付けとして外的環境や本人の自己管理能力ばかりに目が向いていた。
しかし、この日リズム、年リズムといった体質は人それぞれ異なり、その要因には遺伝子やら先祖の記憶やら太陽系までが関係しているだなんて!

 
三木先生の話が面白いのは「ハラワタ」から話すからだという養老孟司先生の解説を読んで、腑に落ちた。
あ、私ったら「腑」なんて言葉を自然に使っている。
腸が煮え返るとか、肝を冷やすとか、五臓六腑に染み渡るとか。
日常に現れる内臓の言葉はたくさんある。

考えてみると、不思議なようで、少しも不思議でない。

三木先生によると、私たちは無意識のうちに内臓と対話して生きているのだから。
 

表紙で逃げてごめんなさい


この表紙の絵の謎は、読んでみてのお楽しみだ。
読み終わると、かわいく見えてくる。

子育て指南としてはもちろんだろうが、夫婦危機をむかえている人にも是非読んで頂きたい。
騙されたと思って読んでみると、三木先生のハラワタマジックにかかること間違いない。
そして、もしかすると、パートナーや家族に対する見方が変わり、ほんの少しだけ優しくなれるかもしれない。
読み終えるころには、三木先生、と親しみをこめて呼びかけたくなってしまう。
 

今日も、夜中にゼリーを作り始めたり、変なステップを踏みながらトマトソースを煮込んだりする夫がいる。
ドンドン、ガチャンガチャンと聞こえてくる音をベッドの中で子守歌ぐらいに聞いている私だが、そうか、あれはゴキブリ出勤だったのか。
 
夫の日リズムがもう少し朝型になれば、仕事にも余裕をもって行きやすくなるだろうとは思う。
しかし、夫のゴキブリ出勤は、夫だけじゃなくて、夫の後ろにいる夫の先祖の遺伝子からの影響もある。
そう思うと、だらしないと一言で片付けてはならないのだろう。
ゴキブリ出勤がいいかわるいかはまた別の問題だが、ソファで寝落ち、風邪ひきコースだけは避けてもらいたいと思う。
 
そんな風に思えただけでも、私もなかなか大人になれた気がする。
 
かといって、私のイライラが治まることはないかもしれないし、これからも生活リズムの合わない生活が続くのだろうけれど、知っていると知らないでは違う。
 
これからは、ソファで寝落ちを見たら、イライラする前に、夫の後ろにいるたーくさんの先祖やら遺伝子やらを想像すべく、うーんと遠くの方を見よう。
 
そして、「何百年経って、ちょっと今こんなことなってますけど!」とご報告申し上げたい。
 
それから、どうしてもイライラがたまって仕方なくなったら、夫に言おうじゃないか。

「よし、腹を割って話そう!」



普段、本の感想など書かないのに、こんなものを書いてしまった。
これも三木先生マジック。


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