70ユーロの価値
日曜日の午前中、ロバたちがご飯の取り合いをしていた。
小さい子が口に入れようとしたにんじんは、あっという間に強い子たちに奪われてしまった。同じことが何度か繰り返される。
しかし、どれだけ隅の方に追いやられても、負けずにこちらに向かってちょこちょこ歩いてくる子がいる。
そのがんばりにエールを送りたくて、茶色いその子に届くよう、にんじんを放り投げた。
◆
このあたりの中学、高校では、ヨーロッパの提携学校に1週間ほど滞在するプログラムがあるらしい。交換留学という形で、学校ごとにシステムは異なるようだが、大抵は学年で英語の成績がよい人たち30名ほどが対象になるそうだ。
日本語を勉強しに来ている中学生、高校生の中にも、そわそわしている人たちがいる。先週は高校生の女の子がデンマークへ行った。来週は中学生の男の子がオランダに行く。
「交換」なので、向こうの国の学生さんたちもアンダルシア田舎に1週間やってくる。
ちょうど先週は、中学生の男の子の学校に30名のオランダ人が来ていたらしい。
一緒に授業を受けて、放課後は毎日何らかのアクティビティがあって、その後も夜まで一緒に過ごしたんだ、と中学生Aくんが目を輝かせて言う。
「一番楽しかったのは、スペイン人とオランダ人60人でバーガーキングに行ったこと!」
放課後の一番楽しいアクティビティがバーガーキング、というところがまたスペイン田舎らしい。
とはいえ、私だってそんなものだっただろうと、田舎の子ども時代を振り返る。そして、近所にバーガーキングなんて洒落たものはなかったことを思い出した。
スペインとオランダ人の学生で二人一組のペアになり、現地ではお互いの家に滞在する。Aくんとパートナーのオランダ人の学生さんは、お互い動物好きなことからとても楽しい時間が過ごせたという。
Aくんは、来週オランダでパートナーの家に滞在するのを楽しみにしている。
既にグーグルマップで滞在する家の通りを見たようだ。
事前準備の仕方がいまどきだなと思う。
「あのね、道がとっても広くてね、とってもとってもきれいでね!スペインにはない道だったんです!!」
スペインにはない道ってなんだろう。
帰ってきたら、実際にどんな道だったか報告してくださいね!と返す。
ふと、Aくんが静かになった。
「あのね、オランダ人はお金持ちなんです」
さっきまでにぎやかだったZoomの画面が静止画像のようになった。
「みんな、中学生だけど自分のクレジットカードを持っていました。値段を特に気にする様子なく、たくさん買い物していたのでびっくりしました」
そこから、Aくんは堰を切ったように話し出した。
ある日、一人のオランダ人学生さんが財布を無くしたという。
中に入っていたクレジットカードは利用停止の手続きをしたが、財布には現金も70ユーロ(1万円ちょっと)ほど入っていたようだ。
「でもね、その学生さんは『たったの70ユーロ、どうってことない』って言ったんです」
ほかの学生さんたちが叫んでいる。
「ええ!」
「な、70ユーロは…!大金です!!」
Aくんは続ける。
「スペインでは、70ユーロあったらかなりの贅沢ができるじゃないですか!!でも、もしかすると、オランダ人にはお小遣い程度のものなんでしょうか?」
画面の向こうが静まり返った。
Aくんがとどめの一言を放った。
「スペインはヨーロッパのPIGSなんです。ポルトガル、アイルランド、ギリシャも同じような立場です。僕らはヨーロッパの中でもとても貧しいんですよ!ううう!」
そう言うと、彼は机につっぷして叫び始めた。
「70ユーロが小銭ぐらいのものだなんてえ!お金持ちの国に来週行く僕はどうしたらいいんですか!何も買えませんよお!ううう、スペインは貧乏だああ!」
ここは日本語のクラスだ。
今日は宿題のチェックと新しい文法を教えなければならない。最近みんなで読み始めた『注文の多い料理店』の続きもやらなければ。
同時に、Aくんの話が示唆し得るEU間の経済格差を改めて目の前につきつけられたように感じ、そして何といっても10代の中学生が自国の行く末を憂いていることに心が揺さぶられた。
気が付くと、静まり返る画面の向こうを見つめるばかりの自分がいた。
その間、Aくんの嘆きは続いた。
「僕は借金ばっかりで、オランダに行っても何も買えないかもしれません」
借金?
ちょっと待てよ。
Aくんの言っている「借金」というのは、大好きなコスプレグッズや刀などを買うためにご両親から借りているお金だ。
「それはそうなんですけど、そんなこと言ったってえ!」
クレジットカードなんて持ってない、今回のために作ってもらったけど使い方もわからない、第一自分の口座にはまだ1ユーロも入ってない。
Aくんはすっかりしょげてしまった。
◆
全然関係ない話だが、ずっと聞いてみたいと思っていたことがある。
スペインにはドイツ発のALDIやLidlというスーパーがある。これらのスーパーは、アンダルシア田舎では(少なくとも私の住む町では)地元のスーパーと比べてかなりの人気がある。それどころか、ALDIやLidlに行くのはちょっとしたステータスになっているところがある。
「これ、ALDIで買ったのよ、いいでしょ!メルカドーナ(スペインのスーパー)にはないわよこれ!」
という具合に。
私は主に青梗菜を求めにALDIに行くのだけれど、スペインにはない品物を見かけたときは確かに嬉しくなる。
本場ドイツでは、ALDIやLidlはどちらかというと庶民向けスーパーの位置づけだと聞いたことがある。ドイツにお住いの皆様、ほかの国にお住いの皆様、このあたりいかがでしょうか。
◆
Aくんの話に戻る。
ひととおりすねて嘆いて気がおさまったのか、彼はげらげらと笑い出した。
私は下手ななぐさめの言葉や、みんなで考えてみましょう、みたいなことを言うのをやめた。
大切なのは、Aくんの今の気持ち。そして、来週オランダに行ってAくんが実際に自分の目で見て何を感じるかだ。その上で、Aくんがどんなことを考えたか、気持ちの上での変化があったかなどを改めて聞いてみたい。
◆
少し話を変えた。
「自転車には乗れるようになりましたか?」
今回、Aくんの学校では、交換留学への参加条件として、英語の成績がよいことのほかに「自転車に乗れること」があった。オランダは自転車大国だからということで、自転車に乗るアクティビティもあるようだ。乗れない人は連れていけないと言われたらしい。
私は知っている。
14年間自転車に乗ったことがない彼が、昨冬から弟さんに教えてもらいながら練習を始めていたことを。
私の質問を聞き、彼はうんうんと大きくうなずく。
「小さい道でなら、だいぶん乗れるようになりました!!」
これからのアンダルシアの未来を担うAくんは続ける。
オランダ人グループには、日本語を勉強している学生さんがいたこと。日本語で少し話したこと。
「日本語で会話ができて、とっても嬉しかった!ただね、僕の方が上手だった。うふふう!」
すっかりいつもの中学生男子の調子に戻った。
ユーロという共通の通貨を使っていても、1ユーロの価値は国によって全然違うようだ。月給1000ユーロもらえたら御の字のアンダルシア田舎と、ほかのヨーロッパの国のお給料は全然違うだろう。イギリス(今はEUではないが)やドイツからやってくる人たちがスペインに来ると豪遊できると言われるのも、わからないでもない。
Aくんはいわゆる秀才タイプだ。ときに上から目線になりすぎることがあり、そのせいで学校中の先生に嫌われている、と自分でいつも言っている。
そんなAくんだってまだ中学生だ。すごい、すごいと言われて育てられた男の子が同年代のほかの国の学生と過ごした一週間は、思った以上に濃かったに違いない。同時に、母国スペインについて思考を巡らす機会になったのかもしれない。
私自身、70ユーロからいろいろなことを考えさせられた。今もまだまだ考え中だ。
依然として、スペインの経済状況は厳しいけれど、アンダルシア田舎の若者には、どうかくじけることなく未来に向かって堂々と歩いていってもらいたい。
そして、その未来を明るいものにするツールのひとつとして、今彼らが学んでいる日本語がどこかで役に立てば嬉しいなとも思う。
初めての外国、EUでの1週間でAくんは何を感じて帰ってくるだろうか。
土産話を聞くのが今から楽しみだ。
Aくん、胸を張っていってらっしゃい!
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