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第四回 TENTOの東京進出 

日本は中央集権国家です

近年は地方移住がずいぶんもてはやされ、地方自治体のキャンペーンもさかんですから意識することもすくなくなりましたが、日本は依然として中央集権国家です。国会は永田町にあり省庁は霞ヶ関にあり、地方移転をする様子はまったく見られません。大事なことはすべてその二カ所で決められています。
地方を盛り上げて日本全体の活性化につなげようというプランは何十年も論じ続けられていますし、実現したらすごいぞと夢がふくらむ話もあったのですが、ほとんどは机上の空論に終わりました。

TENTOは東日本大震災とともに生まれましたが、震災復興のためにつくられた「復興庁」は霞が関につくられました。復興のための役所なんか被災地につくられた方がいいに決まっています。しかも、かつて東南アジアで復興庁が被災地につくられ、うまくいった実績があったのです。にもかかわらず霞が関! 嘆息した人は少なからずあったにちがいありません。

フラれ続けるナンパ師

草野も竹林も埼玉在住でしたから、最初の教室は埼玉に設けられました。
東京に隣り合わせている埼玉はベッドタウンですから人口もたいへん多くなっています。

東京に出なきゃダメだという考えは、今でもわりと一般的なものかもしれません。とくに芸能活動をしたい人は、東京に住むことが多いようです。おそらく全国ネットのテレビ局は東京にしかないという事情が大きく関連しているのでしょう。テレビの影響力は一時期に比べずいぶん弱くなったといわれていますが、ここが改まるのはもうしばらく先だと思われます。

TENTOの拠点を東京に築くため、出版社に知己が多かった草野は休みの日に会議室貸してくれないかとずいぶん声をかけたのですが、すべて答えはノーでした。休みの日? 冗談じゃない。なにかあったら誰が責任をとるんだ。まるでハンコで押したようにその答えは同じでした。
そういうこと言ってっから出版社は苦しくなるんだよというのは負け犬の遠吠えで、要するに当時のTENTOにはまったく影響力がなかったのです。部屋を貸してくれという要望にたいしてそれを上回るメリットを提示することはまったくできませんでした。

早い話が声かけるとみんなフラれるわけで、さすがの厚顔無恥のナンパ師も、だんだんおとなしくなっていかざるを得ませんでした。

TENTO新宿がはじまった

事態を打開する提案をしたのは竹林でした。
彼は新宿で営業するパソコンスクールと関係が深かったのですが、そこが場所を提供してくれるというのです。
そのスクールは顧客のほとんどが社会人でした。TENTOとは営業時間がバッティングしないから、あいてる教室を使ってもいいよと言ってくれました。しかも、機材もすべてそのスクールにあるものを使用していいといいます。レンタル料金を支払う必要もありません。
まさにこれ以上は望めないほどの好条件なのですが、元来が厚顔無恥ですから、あんまり感謝はしてなかったかもしれません。

かくして、TENTO新宿がスタートしました。新宿駅から歩いて五分の好立地で、現在も銀行などが入っている高層ビルです。エレベーターはむろんのことエスカレーターもあり、芸術建築としての先鋭さをアピールするためのスペースもありました。TENTOが教室を開いたビルとしては、今なおもっともハイソなもののひとつと言っていいでしょう。

ありし日のTENTO新宿からの眺望

新宿に教室を開いたことによって、地理的にそれまで獲得することができなかった東京の南西に住む人たちも顧客にすることができました。

残念ながら、このパソコンスクールは現在は閉校しています。
当時はオフィスにパソコンが入ったばかりで、オフィス・ソフトが使えることがサラリーマンの重要な素養のひとつになっていました。あるいは、この技術が一般化したためかもしれません。こうしたスクールはあちこちにあったのですが、廃れていくことになりました。

TENTO新宿はおよそ2年間、ここを拠点として活動することになりました。

2013年春のTENTO新宿


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