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第二回 「災害時代の子どもとIT」その裏側

未曾有の大災害

東日本大震災は、災害としては日本史上最大規模のものでした。
当時のニュース映像です。

震度にせよ被害の大きさにせよ死傷者の数にせよ、これを越える天災は(すくなくとも日本には)ありません。

テレビもしばらくは自粛が続きました。お父さんやお母さんをなくした人がたくさんいるのに、お笑いでもねえだろう。そう考える人がとても多かったのです。現在よりもずっとテレビの力が強いころのことです。

とはいえ、どんな災いであっても、それを利用して大きくなるものはかならずあります。たとえば建築業者などには、震災があったおかげで予想外の発展をした企業も多かったと聞きます。復興景気という言葉も生まれました。

ひょっとするとTENTOもまた、そうした「震災を利用して大きくなった会社(まだ会社になってませんでしたが)」のひとつとして数えてもいいのかもしれません。なにしろ体験会のテーマは「災害時代の子どもとIT」です。ブロードバンドするには格好の素材であったと言っていいでしょう。

宮城県気仙沼市

大地震、そのとき

話を3月11日に戻しましょう。
東北地方太平洋岸の被害が甚大なため、報じられることもすくないのですが、東京を中心とした関東地方も大きな影響を受けました。なにしろ大地震が起きたわけですから、電車を中心とした公共交通機関はすべて運休になっていました。
郊外に住んで都心に通勤する人の多くは、たいがい帰宅できませんでした。草野(元TENTO代表)も竹林(現TENTO代表)も、都心から離れることができませんでした。いわゆる帰宅難民です。

当時、竹林のメインの勤務先は、埼玉県にありました。ベッドタウンではありますが東京都とは隣接していません。彼はふだん、そこに自動車で通勤していました。したがって通常どおり勤務していれば、帰宅難民になることはなかったでしょう。

ところが、どういうわけかその日にかぎって彼は休日で、東京は銀座周辺(中央区)でおこなわれる講演会に参加していたのです。要するに、イレギュラーに帰宅難民になっていたわけです。
思わずネタかよとツッコミたくなるような、コミカルな――もっといえばついてない――エピソードでありますが、こういうことがとても多い人であります。

もっとも、この災いは転じて福となりました。TENTOの何度めかの体験会は、千葉県の浦安市(東京ディズニーランドのお膝元)でおこなわれることになりますが、それはこのときお母さんの知己を得た竹林がもたらしたものです。

東京駅

ポスティングする帰宅難民

草野は東京の文京区におりました。耐震構造のしっかりした新しいビルディングに勤務していたため、地震の影響はほとんど受けませんでした。東京は震度5(場所によっては震度6)ですから、本棚やキャビネットが倒れるような被害はわりと普通にあったのですが、それすらありませんでした。

とはいえ、どんな場所に勤めていても、郊外に住んで都心に勤務するスタイルを選択しているかぎり、帰宅難民になることから逃れることはできません。
列車がようやく平常どおり運行しはじめたのは、翌々日になってからでした。当日は動かず、翌日も点検などで列車は大幅に遅れました。そんな中、帰れなかった人が鉄道駅に殺到し、大混雑となっていました。それがさらなる遅延をもたらします。

草野はそのとき何をしていたかというと――あえて帰宅の途につかず、TENTOのビラをポスティングしていました。住宅街を歩き、子供がいそうな家のポストにビラを入れてまわるのです。

帰宅難民の群れにまじって駅で無為な時間を過ごすよりはずっと有意義だ。
……と、草野は考えていましたが、大地震の翌日にプログラミングスクールのビラって、とても非常識です。ビラ配られた方の気持ちを考えろよと言いたくなりますし、なにより、そんなときに配っても効果があるとは思えません。

すこし考えをめぐらせればわかることなのですが、当時のTENTOのプロモーションは駅でのビラ配りとポスティングという原始的な方法しかありませんでした。
要するに余裕が全然なかったわけですが、当事者は往々にして、そこに気づくことができないものです。


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