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短編小説「虫刺され」

「たぶん昨日、刺されたんです」
口の横にできた、赤い虫刺されの痕を指差してエミリーは言った。

「最初は痒く無かったんですが、だんだん口がムズムズしてきちゃって」
ふむふむと、医者はカルテに書き込みながらうなずく。

「気づいたら、言っちゃったんです。『お客さま、それは似合いません』って」
エミリーは目を見開いて、前のめりになって医者に訴えた。医者は、ははあと言った。

「こりゃあ正直虫ですね」
「しょうじきむし?」

「そうそう。めずらしい虫なんだけどね、こいつに刺されると、嘘がつけなくなる。嘘をつこうとすると、口がムズムズ痒くなる。本当のことを言うとすっきりしてムズムズが落ち着くんですよ」
「そんな…」
「なあに、心配しなくても一週間程度で治りますよ。塗り薬、出しときますね」

エミリーは薬をもらって診療所を出た。途方に暮れていた。
「困ったわ、これからちゃんと接客できるかしら…」

エミリーは帽子屋だった。店の奥には工房があり、年老いた父が帽子を作っていた。エミリーは店頭に立ち、客のオーダーを聞き、帽子を売っていた。

エミリーは心優しく控えめだったので、お客が帽子をかぶれば褒めそやし、どんな帽子でも「似合う、似合う」とおだてていた。常連客は皆、傲慢でプライドの高い客ばかりになっていた。


診療所から戻り、帽子屋の看板を「OPEN」に裏返すと、早速、真っ赤な髪色の女がやってきた。黄色い帽子を試着して、鏡ごしにエミリーに言う。

「どうかしら!ねえ!似合うかしら?」

エミリーはいつもの様に「お客様お似合いですよ」と言おうとすると、口が猛烈にムズムズしてきた。そして
「いいえ、全然。お客様の真っ赤な髪が台無しです」
と口走った。赤髪の女は顔まで真っ赤にした。
「ひどい!」

しかしエミリーが続けた。
「こちらが似合います。このネイビーのベルベットの帽子。パールの飾りが素敵でしょう、あなたがかぶると、真っ赤な髪がまるでバラの花束の様。」

赤髪の女はムッとしながらネイビーの帽子をかぶった。黄色の帽子の時は灼熱の太陽と砂漠のようだった顔が、高級ホテルのロビーの生花のように上品な顔になった。赤髪の女は上機嫌で帽子を買い、帰っていった。

その日から、エミリーは痒いところを掻きむしるように、思った通りの言葉を吐き出し、お客に1番似合う帽子を提案し続けた。初めは怒る客も、しっくり似合う帽子を手に入れることで、やがてエミリーの助言を頼る様になった。

エミリーの口の横の腫れ物は、すっかり無くなっていた。けれど、忌憚のない助言はそのままだった。本音で話すことで、商売も人間関係もしっくりうまく行くことを感じ、勢いに乗っていた。

連日大繁盛の帽子屋。ある日、店の奥から帽子職人の父親がのっそり売り場に現れて言った。

「もう懲り懲りだ、引退させてくれ」

彼の口元には虫刺されの跡が赤く腫れていた。



(完)