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終活とインターネット。独り言。

※特に死ぬ予定も死ぬつもりもないです。念のため。

新しいパソコンのキーボードが良い。
だいたいなんでも新品っていうのは良いか慣れないかのどちらかだ。
今回の前任者は「a」と「i」が打てなくなり壊れたクラリネットのようになってしまったからこの目の前にあるものを使うしかない、と重い腰を上げてみた。そしたら案外一文字打ち込む感覚が心地よくて、そういえばこいつ給付金を半分食らっていったっけ、と思い当たる金銭的な重さはありつつ目をつぶることにした。ついでに自分で設定した締め切りがある原稿の進捗にも目をつぶってみたのだけれど、心の中にある10月までの日めくりカレンダーの一枚一枚は、めくるのは重たいくせにすぐ過去へとめくれていくから今日も深夜の緑茶は渋い。

さて心地よさのままに最近考えていた、終わる活動と書いて「終活」について気の向くままに書いていこうと思う。
いや、違うんだ。別にそこまで鬱が悪化しているわけでもないし、今すぐ人生にオチをつけるつもりは毛頭ない。
ただ、昨今の空気を淀ませている、とあるお酒と呼び名が同じで、圧倒的な質量でテレビメディアや井戸端メディアの話題の中心にずっと居座っている、きっとこれからの新しい何某でもそのままであろうあの面倒なヤツ。

それにかかるかかからないかは、きっとソーシャルゲームで一番輝いているキャラクターがお手元にくるかどうかぐらいの話なんだと思う……いや決して問題や影響力を矮小化しているわけではなくて、最後に決めるのは頑張っても「運」の一文字なんだと、色々な話を見たり聞いたりしているとどうしても思ってしまうからだ。

少し話がそれた。要はいつ何が起こるかわかったもんじゃない、って話なんだ。いつ漫然と苦しい呼吸が見過ごせないレベルになったとか、またはそれなりに必要な買い出しから帰ってしばらくしたら咳が我慢できなくなったとか。そしてえいやっと然るべき場所、然るべき手順で相談したら自宅自主監禁を命じられるとか程度によっては即座にしばらく家に帰れなくなるとか。
そしてそのまま『先に』いってしまうのもまた(年齢・体質によるのもあるけど)、可能性としてゼロではないのだ。

そして主題に戻ってくる。「終活」。あこぎなガチャのような割合で一番星に輝くものを引いて、そのまま一番星になってしまった時のために必要だよな、とふと思い立ったのである。

別に特にお金を借りている場所もなく、財産だって程度が知れている生活だ。そもそも僕の雀の涙みたいな残高なら、きちんと後に残してしまった人が申請すれば自由に使えるような仕組みになっているのだし、そこは心配する必要はない、と思う。
ただ、はたと気づいたのは遺された人が僕の関係各所にどうやって僕の死を伝えればいいのか?ということだった。

以前は少しでもお世話になった人には、主に年賀状を送るために住所くらいは聞いていたし、それをまとめたものがもっとゆるく共有された場所にあった。だからそこから「喪中につき年賀状なし(意訳)」と送ればある程度必要な場所にはきちんと「一人の人間の終わり」が伝わった。
しかし、今の自分を鑑みてみた結果。そうは簡単にいかなさそうだ。

高校の友人は大丈夫、まだ年賀状出すために住所を聞いてリストに入れてあるから。しかし大学以降は難しい。連絡先はほぼスマートフォンの中に全部詰め込まれているし、なんならTwitterで知り合い、Twitterでしか交流がないけど大変お世話になった人もそれなりにいる。
このnoteの文章を読んでくれていて、かつてんたこんという人間の個別認識をしてくださっている人はまさにそんな感じだと思うのですが、いかがでしょうか。

そんな関係各所への連絡は、結局この手のひらの中にあるスマートフォンという名の便利グッズを開かなければ不可能だ。それに例えばTwitterに僕の死を遺族が書き残したとしても、それが本当に事実なのか、なんて他から見れば知りようにもないのだ。
だからきっと「終活」をしたとしてもあえて悲しい(と信じたい)お知らせを送るのもどうかと思う方々には何もせず、ただてんたこんの更新が途絶えたことによりアカウントが朽ちていって、最終的に使用されてないものとして僕という存在はさらさらと静かに消えていくのだろう。
もちろんそれでも記憶の隅にちいさなスペースでも残しておいてくれていたらきっとそれ以上に嬉しいことはないのだけれど、僕がその喜びを噛みしめることはない、だってもう「先に」いってしまったのだから。

そんなことを考えていたら、インターネットって人間同士の距離を縮めたのか広げたのか、よくわからないな、という感想が湧き上がってきた。

縮まったこともある。例えば遠く離れた地でも、インターネットを経由すればリアルタイムで対岸の火事はよく見える。どこで誰がマスクの有無で燃えただとか、有名人がよくある人間同士のわちゃっとしたアレをして怒られが発生しているかだとか。そういう類いのものを観測するにはテレビの放映を待つよりよっぽど速い。

かたや、遠くなったこともある。先述の通り「人間の終わり」の報告は電話あるいはモノクロのはがきと、SNSのそれでは現実性が段違いだと思う。
そして勿論この僕らがつねに離さない情報の宝箱の鍵をあけることができなけば、最低限の文字さえ送る手段さえ存在しなくなるのだ。
僕はそれを関係性がある意味では遠くなった、と感じた。
他の人がどう思うかはわからないけれど。

と、ここまで書いてきたのだけど「それは社会が望んだ結果だ」とか「周囲の干渉を拒否してきたが故の当然の帰結だ」とかもっと頭の良い人が考えて論じているだろうから、僕はこうしてインターネットの片隅に独り言、もとい壁打ちをするだけに留めたい。
そもそもキーボードが良いから独り言を書き始めた訳であって、何かを論じる気は一切ないのだ。

今日も夜の緑茶は渋い。だってまだ4連勤残しているし、連勤している内に10月のカレンダーの微笑みが露わになるだろうから。

それでもキーボードが良いから、今日またひとつ、文字によって自分という人間の存在証明が、生きているという保証ができた。インターネットで発信が一切途絶えて時間が経つということは、この遠いのか近いのかわからない曖昧な距離感では「終わり」を迎えるのに等しいことだと思うから。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます。
今後ともメインはTwitter、noteは不定期に活動していきますので、よろしくお願いいたします。

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