異世界の交錯

電車の中で、ふと思った。
私は、好きなグループの曲を聴いていた。

好きなグループの曲を聴きながら、
電車の案内, 社会の音, を聞いていた。

片耳で社会に足を踏み入れながら、
片耳で「○○を好きな人たち」の世界に存在していた。

側から見たら、私が何を聴いているのか、どんな世界に入り込んでいるのかわからない。

私の周りにいる人たちも、誰かはドラマの世界に、誰かはゲームの世界に足を踏み入れているのだろう。

その世界とは、当事者たちにしかわからないものであると思う。
当事者たちにしか体感されていない世界。
ただ、“当事者”オンリーではなく“当事者たち”だと思っている。

例えば、私は好きなグループの為に検索したり予定を組んだりするけれど、
一番近い友達だって、その名前すら知らないことがある。

ただ、同じグループを好きな人とは、すぐに感覚を共有できるのだ。

私が曲を聴いた瞬間、そこには、その場には私とグループだけの空間が広がり、
そして「○○を好きな人たち」の世界に入り込んでいるのだと思う。


前を見て。

目の前に実在するのは、私の見ている“本人”だけであっても、
彼はひとつの“コミュニティー”の中に存在しているのだろう。

たとえそれが一般的に解放されたコミュニティーではなく、例えば自分の作品に熱心に取り組んでいたとしても、
そのように「熱心に取り組む人たち(という感覚)」の世界(コミュニティー)はあるはずだ。


私はそんな感覚に没頭するのが好きだ。

電車の中では特に、特別なむず痒いわくわくがある。

そこでは、没頭しているのに、周りと隔離されているわけではない。
お互いがお互いを把握せず、
でも理解し合いながら、
異世界に存在しているのだ。


心地よい。


電車に乗るひとりひとり、
彼らにはそれぞれの「好き」があって、
感覚を共鳴できる世界の中に存在しているのだろう。


イヤホンが接続されていなくて、音楽を垂れ流してしまうハプニングがある。
大部分は恥ずかしさなのだけど、
なんなら少し嬉しくなったりするものだ。

私は、“外”で本を読む時、たまに、
上からカバーを掛けたり裏返したりせずに読んでみることがある。

「私はこんな世界にいるよ」
と、たまに、言ってみたくなるのだ。
声は掛けずとも、小さく伝えたくなるのだ。


そして勿論、家で没頭するのも好きなわけで、
私はこれから本を読んで眠るわけだ。


異世界への没頭。


それが何よりの私の癒しで、

この社会の日常の中では、
異世界が交錯している。

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