[連載]思春期の子どもをもつ母親への心理学講座 その4:たかが三文字ではあるけれども
🔹永久言語としての「いつも」
すでにふれたことだが、我が子が自分の部屋の後片づけをしない、歯をしっかりと磨かない、朝夕の服の着脱ものろいといった場面に遭遇して困惑することは日常茶飯事であろう。そんなときお母さんは、ついイライラして「何をぐずぐずしているのよ」といった言葉を口にし、さらに「あなたって、いつもそうなんだから」といった追い打ちの言葉をかけてはいないだろうか。
そのダメ押しに反応し、子どもによってはカッーとなり、親に口応えをするかもしれない。実は、この「いつもそうなんだから」の「いつも」という言葉が曲者なのである。「いつも」とは、例外がみとめられないほどに、常にという永続的で断定的な意味合いが込められているからである。
だが子どもの立場に立てば「たまたま」そうだったのかもしれないし、あるいは子どもなりにぐずぐずしてしまった何らかの理由があったのかもしれない。その辺への配慮もなく一方的に「いつも」と決めつけてしまったら子どもの立つ瀬がないし、子どもの自尊心を傷つけ反発心を招いてしまうだけであろう。
だから「いつも」という言葉を使いたくなる場面に遭遇したら、逆に「たまたまだったんだよね。これからは気をつけよう」と言った対応をして、子どもに“逃げ場”をつくってあげることが肝要だ。そうすれば、子どもからの反発心はしだいに影を潜めていくだろう。
🔹一時言語としての「たまたま」
今使った「いつも」のことを専門用語で永久言語と言い、「たまたま」を一時言語と呼んでいる。永久言語としては「いつも」以外にも「絶対」「かならず」「ほとんど」「ずっと」「みんな」といった言葉がある。たとえば「みんな」の例としては、「みんな~しているんだから、あなたも負けないでそうしようね」といった励ましや促しをする場合がある。
ここでは「みんな」が絶対的な価値基準となっている。そのような言葉をかけられると子どもは反論できず「なぜ、自分はみんなに合わせなきゃいけないのか?」といった思いが頭をもたげてきて、自分を表出することにブレーキをかけてしまうかもしれない。
一時言語としては「たまたま」以外にも、「めずらしく」「ときどき」「ちょっぴり」「ほんの少し」といった言葉を挙げることができる。いずれも限定的な副詞で、そこでは決めつけとなるようなニュアンスは感じられない。
たとえば一時言語を挿入したかたちの「今日は、めずらしく部屋の後片付けをするのが遅かったね」と言ってあげるだけで、母親が願っている「もっとテキパキしてほしい」といった意図は十分に伝わるはずである(ただし、その場合、けっして皮肉っぽい言い方にならないように注意)。
以上は、注意をしたり叱ったりする場面を想定しての指摘だが、子どもの行為などを褒める場面のときには、それとは逆に永久言語を優先的に用いるようにしたい。
たとえば「あなたって、いつもお買い物をしてきてくれるので、ありがたいわ」といった言葉をかけてあげるだけで、週に一回の買い物だったとしても子どもはどんなにかうれしく、ほこらしい気持ちになることだろうか。
🔹叱るときと褒めるときの使い分け
したがって、叱るときには一時言語で、褒めるときには永久言語で、ということを心がけるようにしよう。
ただし注意しなければならないのは、現代人の子育ては、子どもの「行為」にかぎって褒めている傾向がみられるという点である。我が子が勉強でいい成績をとれば褒め、スポーツで頑張れば拍手を送るといった仕方で自信を身につけさせていくことを必ずしも否定するものではないが、少なくとも、子どもがいい成績がとれなかったり、頑張れなかった場合には、どのように手を差し伸べたらよいだろうか。そういった視点からの子育て法も考えておく必要がある。
そのためには、子どもの存在そのもの、生かされてある子どもの存在自体を全面的に肯定していくという姿勢が、求められているのではないだろうか。
それから、禁句として「でも」とか「しかし」といった言葉も指摘できる。いずれも話の流れのなかでよく用いられる接続詞だが、せっかく子どもの気持ちを共感的に受けとめようと努めていながら、その後で「でもね」と言ってしまうと、ちょうど危険を顧みず自宅の屋根に昇って爽快な気分を味わっている子どもが、いつの間にか親に梯子をはずされて降りられなってしまったようなもので、子どもの心のなかに戸惑いや不安が拡がってしまうであろう。
具体的に説明すると、我が子から学校で友達から毎日いじめを受けているので登校したくないという気持ちを、いきなり訴えられたとする。そのとき少しでもカンセリング・マインドを心得た親御さんなら、子どもの気持ちに寄り添いつつ「そう、いじめられているの。それはつらいね」といった応答をするだろう。それによって子どもの表情はいくぶんやわらぐはずだ。
しかし、それも束の間、「でもね。学校に行かないと勉強が遅れてしまうでしょ」といった言葉でつなげてしまうことがないだろうか。すると子どもは内心「お母さんだって、やっぱり自分の味方じゃない」と受けとめて、以降、心を閉ざしてしまうかもしれない。
「でもね」は、たかが三文字であるけれども、実は知らず知らずのうちに親子間の心理的距離を広げてしまう怖い言葉なのである。
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