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維新の会が支持を集めるのは、誰も政治に期待していないから。

 統一地方選挙の前半戦、大阪府、大阪市、奈良県の首長選は維新(日本維新の会と大阪維新の会をひとまとめにして)が勝った。大阪府や大阪市の議会でも維新が過半数を占めた。
 なんとなく、他の地域に住む人は、関西は大丈夫か?と思ってしまうかもしれない。それだけ、温度差が違うということなのだ。

 なぜ、関西で維新が強いかといえば、メディアの影響を指摘する人は多い。
 実際に、大阪のホテルに宿泊した時に、朝の情報番組を見たときのショックといったら。
 在京のテレビ局の朝の番組も、たいがいはろくなものではないなあと思う。一時期は、不倫の話ばかりだったし、選挙期間中でも選挙の報道はほとんどない。
 しかし大阪のそれは、そもそも芸能ニュースしかない、というレベルのもの。大阪の人はそれしか関心ないのか? と思ってしまう。
 大阪のテレビ局には政治部がないせいだ、とか、吉本興業が牛耳っている、だとか、いろいろな説がある。知事がお昼のワイドショーとかに出ていれば、なんだか身近になる、ということかもしれない。
 でも、それは一度、わきに置いておこう。というのも、ぼくは大阪のテレビのことを語れるほど詳しくはないから。それに、メディアの影響だけでこういった結果になるという単純な話でもないだろう。

 維新がよく使うフレーズが、「身を切る改革」である。これがけっこう有権者に受けている。でも、このフレーズを使う政治家には注意が必要だ。
 「身を切る改革」が支持される理由は簡単だ。政治家が期待されていないからだ。有権者にとって政治家は、お金を無駄にもらっている人であって、何か仕事をしている人ではない。だったら、今の給料その他、もらいすぎだと感じるだろう。
 税金をとられている身からしたら、税金を無駄に使われているところはなくしてほしい、と思うのは、そう変なことではない。公務員が何しているのかわからないから、安定した身分の人たちはずるいので、減らせ、ということになってしまう。これと同じことだ。

 では、このフレーズにどうして注意が必要か。「身を切る改革」というのは、政治家として何もしません、と言っていることに等しいからだ。
 これまで、何もしてこなかったので、これからも何もしません、ということだ。
 でも、実際には何もしないわけではない。政治家はその立場を利用して、利益誘導ができる。それが違法だとは限らない。というか、政治家の役割はある程度、支持基盤に対して利益を誘導することだし、だから国会議員でも、地域や支持母体の利益を代表している。
 とはいえ、議員と首長ではそれは異なってくる。首長が支持母体だけの利益を考えていたら成り立たない。でも、誰も期待しないのであれば、支持していない人たちの期待に応える必要はないだろう。ただ、「身を切る改革」をすればいいだけだ。

 期待されない政治においては、景気のいい話ばかりが受けるようになる。万博をやり、カジノをつくる。
 景気のいい話では、儲かるひともいるけれど、ツケがまわってくる人たちもいる。ツケが回ってくるひとたちは、「身を切る改革」で納得する。
 そういうことだ。

 有権者はもっと、政治に期待すべきだ。よく「投票に行っても何も変わらない」という人がいる。でも、現実はそうじゃない。
 日々様々な重要なことが、議会の力関係や首長の判断で変わってくる。子ども手当から高齢者の健康保険の負担、気候変動政策から安全保障政策まで、給食無料化や、それ以前に給食をどうするのか、公的医療機関の整備から地域再開発計画まで。
 そして、見落とされることが2つある。
 1つは、多様な政治的課題に対応するためには、政治家にそれ相応の力が必要ということだ。政治家というのは一人でできるものではない。きちんとした政策スタッフが必要だ。そうでなくて、多様な政治的課題には対応できないだろう。米国上院議員のように、20人くらいスタッフを抱えるケースもある。そこまではないとしても、日本のように公設秘書が政策秘書を含めて3人というのはさびしい。
 有権者は、政治家の「身を切る改革」ではなく、期待に応える政治的な活躍を求めるべきだし、そのための改革を求めるべきなのだ。
 もう1つは、投票だけが政治を変える活動ではないということだ。政治に対して何を求めているのか、有権者に限らず、もっと声を出していい。
 新聞への投書でも、デモへの参加でも、政治家事務所へのメールの送信でもいい。あるいは、町内会やPTA活動にも、行政に声を伝えるしくみがある。
 全部をやっていくのは大変かもしれないけれど、年に一度くらいはそうした参加があってもいいと思う。
 そうした声に応えるには、政治家は身を切ってなんかいられないはずだ。

 さて、大阪府や大阪市の議会が維新が過半数になって、何か問題があるだろうか。
 むしろ、住民(有権者に限らない)が声を届けることが、極めて重要になったということではないだろうか。
 悪いけど、「身を切る改革」しか言えない議員に、まともな政策があるとは思えない。だとしたら、政策がからっぽな議員の中を、住民の声で満たすようにしてはどうだろうか。

 人々が政治に期待しなくなるほど、「身を切る改革」を標榜する政治家は増えるし、それは政治が何もしないと言っていることに等しいということでもある。
 でも、何もしないということは、現状はより悪くなることでしかない。声が大きい人間が利益誘導していく社会にしかならないからだ。

 そうそう、最後にもう一つ。維新という言葉が好きな人は多いけれど、これも注意が必要だ。
 明治維新の帰結が第二次世界大戦における敗戦だったし、そこに至る過程を考えたら、維新を手放しで求めることなんてできないはずだ。
 それは、見せかけの成功体験を求めている、というだけにすぎない。
 我々はむしろ、戦後の民主主義をやり直さなきゃいけない。
 

 

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