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2023年10月7日以降のジュディス・バトラーへの違和感について

 ジュディス・バトラーは、ぼくがもっとも尊敬している哲学者でありフェミニストだし、それは今も変わっていない。それでも、2023年10月7日以降の、イスラエルによるパレスチナへのジェノサイドに対するバトラーの発言にはどこかしっくりこないところがある。
 最初に発表された文章は以下のサイトで読める。

 その後の発言についても、以下のサイトで。他にもあると思うけれども、とりあえずこんなところで。

 多くの部分では、バトラーの主張に同意する。
 バトラーはユダヤ人ではあるけれど、シオニストではない。そのことは、『分かれ道』でしっかりと書かれている。そうした立場から、バトラーはイスラエルの行っていることが人道に反しており、すぐに停戦すべきだということはもちろん、パレスチナに平和を求める人々が反ユダヤではないということ、そうしたことも含めて、しっかりと語っている。パレスチナを支持することで、学長をクビになったケースについても憤っている。イスラエルとパレスチナの間には武力においても圧倒的な非対称であることも語られる。
 パリでの講演が中止になったことについて、まさにパレスチナでのジェノサイドを求めることが、フランスにおける反ユダヤへの支持と重ねられてしまったことについても語っている。イスラエルがアパルトヘイトを行っている国家だと告発もしている。
 それは、彼女の発言を読んでもらえればいいし、それは、そのほとんどの部分はその通りだと思う。
 イスラエルが行っていることは戦争ですらない。ただの虐殺である。直ちにやめさせるべきである。

 けれども、「The Compass of Mourning」では最初に、ハマスの暴力に対する非難が語られている。この文章の入口で、つまずいてしまうのだ。

 バトラーは『非暴力の力』の著者である。そこでは、大衆が、暴力を使うことなく、社会を変えることへの希望が語られている。世界は基本的にそうなのだと思う。だからこそ、バトラーは最初にハマスの暴力を非難した。その暴力を非難した上で、イスラエルを強く非難する。
 でも、本当に最初に非難すべきは、ハマスだったのだろうか。単純に考えても、それまでの間、ガザはずっと封鎖され、ガザ市民は困難な中、命をつないできた。ヨルダン川西岸ではパレスチナの土地に入植が進められてきた。そのイスラエルの暴力が先ではないか。

 バトラーの批判はアメリカ社会にも向かう。前述のように、パレスチナ支持を表明しただけで、学長の座を追われるような社会なのだから。
 けれども、そもそもはアメリカ社会がイスラエルを通じてパレスチナに及ぼしてきた暴力が問題なのではないか。そしてアメリカ市民の無関心そのものが暴力だったのではないか。
 バトラーはイスラエルが欧米によって建国され、パレスチナ人を難民にしてきた歴史についても語る。けれども、アメリカ市民が無関心だった歴史について語られることはない。
 結局のところ、バトラーに対する違和感というのは、「自分はユダヤ人ではあるけれどもシオニストではない」ということは語るにもかかわらず、「自分はアメリカ人であり、結果としてイスラエルによるパレスチナ侵略に加担する国家の一員」であることについては語られないことではないのだろうか。
 最初にハマスの暴力を非難することへの違和感、それは、本来であれば、イスラエルが70年以上にわたってパレスチナに加え続けてきた暴力に対する非難があってのことだろう。バトラーが認めるように、イスラエルとパレスチナの関係は圧倒的に非対称だし、だからこそ、最初に非難すべきは、本来は、バトラーの言う文脈であっても、イスラエルなのではないか。そして、国際社会の無関心、あるいは暴力的な二重基準の存在が、アメリカ人であるバトラーをして、その暴力をふるう側に立っていたということなのではないだろうか。

 バトラーは『この世界はどんな世界か?』において、パンデミックが人々の格差を可視化させてしまったことについて語っている。この社会が、どれほどエッセンシャルワーカーとよばれる人たちを危険にさらしているのか。
 同様に、10月7日からはじまったイスラエルによるジェノサイドは、パレスチナがどれほど困難な状況にあるか、だけではなく、欧米がいかに暴力的な二重基準を抱えているのか、を可視化させた。それどころか、ドイツやフランスは戦後を十分に整理しきれていないことまで明らかになった。
 イスラエルがアパルトヘイトを行っている国であるけれども、でもそのことはずっと指摘されず、欧米はこのハイテク軍事国家と国交してきた。

 だから、バトラーの発言が、当たり前だけれども、パレスチナ人にとっては受け入れがたいところがある。そのことは、例えば、以下のサイトにある文章を読んでもらえればいい。

 ぼくはバトラーを非難しようとは思わない。バトラーが求めるように、イスラエルはアパルトヘイト国家であり、パレスチナ人に対する虐殺を行ってきたし、行っている。それは国際社会の中で強く非難される存在だ。
 そして、欧米社会がパレスチナを支持できないほど反ユダヤが危険視されてしまったことも問題だと思う。また、オスロ合意が反故にされたことに対しても、何もしなかったことも問題だ。
 UNRWAの職員のわずか12人がハマスに協力したということを、何の根拠もなしに主張したイスラエルの発言に反応して資金の拠出を停止したということもまた、暴力的な二重基準である。
 また、バトラーはアメリカの若い世代がどれほどパレスチナを支持しているのか、ということも語っている。
 けれども、バトラーに対する批判としては、ユダヤ人であると同時にアメリカ人であるということをもっと語ってもいいのではないか。アメリカがアパルトヘイトを見逃してきたことを、その暴力をハマスのことよりも先に語ってもいいのではないか。でも、そのことから逃げているのではないか、そんなふうにとらえたくもなってくる。
 かつても、非暴力の力でアメリカを変えるような努力をすることはできたはずだ。そして、現在はアメリカの学生がそれを行っている。それに対して、経済的・政治的力を持つアメリカ人が暴力的な対応をしている。バトラーはそういう国にいるのではないか。
 だから、ハマスの前に、きちんと指摘しなくてはいけない暴力があることが、先に語られるべきなのだと思う。
 バトラーが最初にハマスの暴力を「無資格に」と言い訳するように非難したことは、バトラーもまたアメリカの暴力の中にいる、そういうことなのではないだろうか。

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