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☆秀逸なストーンズ論? 福田和也「日本人の目玉」

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本書には、ストーンズが二度登場してくる。

ひとつは、川端康成について書かれた章。
川端康成が、普通ならば設定する自と他との境界線を意図もたやすくというよりはあまりにも平然とこえてゆくこと、美しい女性に感じ入って勃起もせずに平然と勝手に射精してしまうかのような川端をあつかった「いつでもいく娼婦・・・」の章で、川端と同じイき方をするミュージシャンとしてある時代のイギーポップが持ち出され、これに対して、観客をイかせることを企み、自分たちもイくふりをするが、ある節度をもって絶対にイくことのない!ローリングストーンズ!という登場ぶり。

もう一箇所は、小林秀雄について書かれた章。何かのための「批評」ではなく、「批評」そのものを創作として完成させた小林秀雄が、「批評」という営為で、余計なことをそぎ落としそぎ落としていっても底に残ってしまうもの、即ち端的な自分自身(このことを「宿命」と小林秀雄は言う)を、創作というシステムで表現してゆくことからもっと直接的に経験してゆくことをめざして、近代絵画で主題であり技法になっている対象喪失という状況から「本居宣長」やドストエフスキーの直接性の「読み」へと、完成させた創作としての批評をも毀しつつ進めてきた「小林秀雄」という発見=造形について丁寧に篤く説かれた後に、ストーンズは登場する。

初期のストーンズ、アメリカ南部のデルタブルースやチャックベリーの曲をカバー演奏しているストーンズが、自分たちの曲ではないにもかかわらず、しかもその演奏が原曲に忠実であればあるほど、そこにはストーンズがいてしまうことを福田氏は自分の好きなストーンズとして語っている。
この小林秀雄の章の始まりは、福田自身が南部ブルースを聞いていた回顧からだったので、長く深い小林秀雄論の終盤に再びストーンズが現れるのは、構成上納得のゆくことではあるとはいえ、指摘されている内容は全く的を得たストーンズの引用で感嘆するのみ。

ストーンズについてのこの二つの指摘、ひとつは、観客をイカセルためにまず自分たちがイっているように内的な節度をもって見せるストーンズ、もうひとつは、南部のブルージーな曲、他人の曲をやればやるほどストーンズらしさが出てくる、というのは見事にストーンズの本質をついているように思える。
もちろん、観客がどんどんイきはじめ自分たちもイってしまっているストーンズを、昂った雰囲気のなか仕掛けに酔ってしまっている仕掛け人のストーンズをマディソン、バルセロナ、ブエノスアイレス、そしてトッテナムの何か拠り所のない演奏といったシーンで見ることは出来る。21世紀のハイドパークでのあの幸福感に満ち溢れたコンサートは、また、別の世界だろうが。

何だか、私には、ストーンズフリークの欲目として、この日本人の批評眼について個性的なまなざしで書かれたこの本自体がストーンズへのオマージュにも見えてくるのだった。


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