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介護現場の人間関係についてのノイズの多い考察(1)【介護現場から考え始めたこと④】

介護職の折島学が、勤務先の介護付き有料老人ホームの施設長の田中から、新年度の契約更新の件で応接室に呼ばれたのは、新年度がすでに始まっていた4月も下旬でそろそろ大型連休に入る頃だった。

応接室は、そもそもは、入居相談に来た本人や家族と施設との面談用に設けられ、入居するための契約書を交わしたり、入居者や家族からの相談を受ける場所だった。
しかし、施設内に保管する書類や介護用の用具などが経年とともに増えても、施設長の田中は、経費を節約するために、書類や介護用具を収納出来る簡易倉庫を敷地に新設することを極力避け、応接室に置かせた。
上品な雰囲気をかもしだしていた掛け軸や大きな花瓶も片付けられ、段ボールが幾段も積まれたなかに、刺繍入りのクロスを取払われむき出しになった大きなテーブルと椅子が数脚あるといった具合になり、応接室というよりは物置のようになっていた。

入居者予定者を施設見学に案内し、入居契約まで持ち込む業務を行っている、ベテランの入居相談員は、お客様といえる入居予定者やその家族と面談や打合せをする応接室が物置になった、その貧しい光景に困りはて、何度も田中へ応接室を倉庫化しないように要望していたが、田中にはどこ吹く風と流されていた。

応接室で、真向いに座った田中が、いつものひとりよがりの空虚な笑みを浮かべ、相手の出方を探るような視線で話しかけてきたので、折島は、カマキリのような姿態から発散される得体の知れない気味悪さをあらためて田中に感じ始めていた。

「ところで・・・折島さんから契約更新というか延期についての希望はありますか?」

他人としゃべる場において、自分から自分の考えや意見をしゃべらないところは、長い銀行員生活で身につけた習慣であるのか、もともとの性分であるのかまではわからないが、自分が責任を取らざるを得ない言質を取られないための用心だろうということはいつものことで、見え見えだった。

「昨年7月に引越のために退社し、その後引越を少し延期したときに、短期間前提をお願いして、結んだ10月からのパート契約は1月末満了だったのを3月末まで延ばしていただいて、どうもありがとうございました。たいへん助かりました。

ご存知かもしれませんが、家内が1月末に突然体調を悪くし、2月に長期入院になりました。身辺があわただしくなる中で、この職場での仕事を続けられたので、気分転換にもなり、余計なことを考えずに生死のかかった家内の病気に立ち向かうことができました。

昨年から予定している引越は、家内の突然の病のこともあり、今のところ、かなり延期せざるを得ません。近ごろは、引越準備は、慌てていた昨年の退社時と違って少し落ち着いて行いたいと退院した家内とも話し合ってます。

そんな次第ですので、契約については、長期延期していただければと思ってます。

あくまで、私の希望ですが・・・」

「ああそうですか・・・契約満了については、もう4月にもなってますし、6月末で私は考えていたのですが・・・」

「今、お話しをした事情で、もう少し、延ばしていただけると助かります。」

「実はですね・・・」

いよいよ、わざわざ応接室で個別の面談にして言いたかったことを田中は言おうとしていた。田中は、少し息を呑んでからぶっきら棒に、折島の隣りに別なひとがいて、そのひとに話しかけるようにしゃべりはじめた。

「実はですね・・・昨年7月に折島さんが、一端退社して、10月にパートで戻ってきたときにも、申し上げたんですが・・・介護職の中に、折島さんがここにいることを歓迎しない声があるんです。」

折島は、昨年夏に急な引越し準備のために6年間勤務したこの職場を退職したが、その後いろいろな事情で引越を延期せざるを得なくなり、秋に2か月ぶりにパートでこの職場に復帰していた。復帰する前に、親しかった同僚たちには挨拶のメールを送ったりしていたので、折島のパートでの急な復帰についての介護職たちの反応はだいたいわかってた気になっていた。しかし、パート契約の際に、折島を歓迎しないひとたちがいるという話を、田中の口から唐突に聞いて寝耳に水のような話で驚いた記憶があった。

そのときは、折島自身は、本来自分は誰にでも好かれるタイプではないし、嫌う人間がいることはこれまでの社会経験で充分わかっていたので、自分を嫌うひともいるだろうなと思ったぐらいだった。ただ、さすがに気になり、職場に復帰してから、介護仲間や看護師さんたちにもそれとなく聞いてみたが、そういうことを普段言っていたり、臭わせている介護職がいることはつかめず、折島もそんな犯人探しみたいなことに熱心にはなれず、そのままになっていた。

「今回も、折島はいつまでいるんだと私のところにまで直接言いに来る介護職がいるんです。それも、何度もしつこく強く言ってくるんですよ。私も困ってるんです・・・」

折島は、田中の軽薄さというか浅慮に呆れるばかりだった。施設長である田中に、直接口をきく介護職、しかも何度も不満を訴えることのできる介護職は、かなり限られてしまう。介護職25人のうち、主任、副主任を除けば、数人どころか、ほんの1人か2人だろう。

田中がわざわざ、折島を辞めさせることを訴えている介護職が誰かを折島に知らせようとして言ってるのかもしれないとも考えた。

同時に、田中自身にとっても折島が目の上のたん瘤であり、排除したがっているらしいことが、視線を空に浮かせたうえでのこれだけはともかく一気に言ってしまおうという口ぶりから充分に伝わってきていた。

「そんなことがあるんですか。ご迷惑をおかけしてすいませんね。ところで、具体的には、私についてどんなことで困って、施設長にまで(折島を)早くやめさせろということを直接何度も言いに来るんですか?」

田中の目に戸惑いがあらわれたことを折島は見逃さなかった。

「大したことじゃないですね・・・声が大きいとか・・・そういうことです。」

予想以上に、内容がない返答だった。答えたくない内容なのか、あるいは、内容自体に興味はなく、折島を嫌っている介護職がいるという事実が、田中にとっては問題なのだろう。そんなことを訴えられることで、自分が責任をもって判断しなければならない事態になることが、田中には厄介なことなのだろう。

なるほど、ここにあるのは、生じた問題を解決しようとする姿勢ではなく、問題自体を逸早く排除したい、問題になっている人間を早く消してしまいたいという田中の感情だけだった。

「私としては・・・」田中は歯切れの悪いまま言葉をつなげた。さすがに当初の満面の笑みはなく、それでもここぞとばかりに急に意地悪い目になり口元はニヤけている。

「職員の和をいちばんに考えている私としては、折島さんを歓迎しない人たちを(折島さんが引き続きこの職場にいることを)納得させるものが欲しいんです・・・」

はぁ、なるほど・・・そうだろう。

「声を小さくしましょうか?」

田中は、引きつったような笑いをし、そのヒステリックな声が、テーブルを囲んでいる段ボール箱の壁にあたり、すれっからした音になっていた。

折島は、田中と会話したこれまでの経験から、自分から何か提案しないと田中との会話は延々と続き堂々めぐりになることは承知していた。

「私を歓迎しない人たちの実体がどうしてもまだつかめないので・・・この件は介護主任に相談して、まず、そのクレーム内容をきちんと把握してから、かれらを納得させるものを主任と一緒に考えて見ようと思います。その結果を待っていただくことで、今日のところはどうでしょう。」

「そうですね! まず、主任に相談してみるのがいいですね。そうしてください!」田中は問題解決が自分の手から離れた喜びに満ちた明るい声で答えた。



折島が、これまでの職務履歴を断ち切るようにまったく業種の異なる介護業界への転職を決めたのは、7年前の61歳の誕生日だった。

ひとに請われ、誘われるままに、自分の好きな仕事だけを選んでしてきた折島は、その頃は、10回目の職場として、あるゼネコンで新規事業のプロジェクトチームに属していた。そして、その仕事もそろそろ折り目を迎えており、転職を考え始めていた頃でもあった。

60歳過ぎての転職は今までとは違い、先の見通しが難しく、考えあぐねていた時に、友人が関係する人材紹介会社から送られてくる求人案内に、高齢者用施設であるグループホームの施設長候補という介護業界の求人が偶然紛れ込んでいた。それまではまったく興味がわかなかった介護業界だったが、求人票を眺めているうちに何だかしだいに好奇心がもたげてきたので、すぐに連絡し、目黒の高級住宅街にあるグループホームの施設長のもとへ会いに行った。

施設長の巧みなことばにほだされたのか、折島にもともとあって眠っていた介護への興味が急に起き出したのか、勤務先から有休をとり、グループホームでの1日職場体験までしてしまった。

その後、数日かけて、おのれの心を探り、妻にも何度か相談し、ついに、一介の介護職になることを決めた。何と、その日は、61回目の誕生日だった。

職場体験をしてみるといきなり介護職になることなどは、折島には不可能と知れ、当時勤務していた会社に辞表を提出すると、さすがにびっくりされ慰留もされたが、手掛けていたプロジェクトを抜けるにはタイミングが良いことも会社側に理解され受理された。その後すぐに職業訓練学校の介護サービス科に入学し、ある程度の基礎を学び、半年後の春に修了し、働き始めたのだった。

初めての職場は、折島が介護技術の取得のために臨んでいた介護付き有料老人ホームだったが、常勤の看護師のいる施設という折島のもうひとつの希望にはかなわなかった。すると、1か月後に折島の希望にかなう介護付き有料老人ホームへの紹介があり、転職した。

それが、7年前だった。

60歳を越していたので、正社員にはなれず、常勤の正社員と同じ業務をこなす嘱託職員という契約社員となった。

勤務後、良き仕事仲間に恵まれたことあり、半年も経たないうちに、日勤から、遅番、早番、月に4〜6回夜勤をこなし、介護職としては、どのシフトにも入れるようになった。

そもそも、折島学が現在夫婦二人で住んでいる、多摩にある住宅を購入し、結婚以来の都心生活を離れ、引っ越してきたのは、15年前だった。都心で始まっていた大規模な地下鉄工事のために住環境が変化し、妻が病弱気味になったための転地療養であった。多摩の住まいは、隣地の教育施設の大きな森に面し、まるで山間の別荘のようなロケーションで、春の桜に始まり、目の前で縦横に展開する四季折々の変化を十分に味わうことができ、夫婦で心身ともに自然に恵まれた生活をすることができていた。
 
ところが、昨年の年明けに、隣地の大きな森が宅地販売会社に売却された。間をおかず、森の木々をすべて伐採し、更地造成し、60戸ほどの戸建て新築住宅が建てられるという計画が周辺住民に発表された。

折島は妻と話し合い、この隣地の森林伐採による住環境の大きな変化を機に、以前から夫婦間の会話であがっていた、妻の故郷である九州への引越しを具体化することとした。

森林地のあたらしい地権者である宅地販売会社の発表によれば、森林の伐採は昨年10月に計画されていたので、その前に引越してしまう引越し計画を夫婦で立てた。急な引越し準備のために、昨年7月に6年間勤めた高齢者施設を退職し、準備に入った。とりあえずは、福岡市の郊外にある公団団地に住みながら、自然環境の良い中古住宅を福岡周辺で探すつもりだった。

ところが、ちょうど夏場にかかり、酷暑により折島老夫婦はダメージをうけ引越し作業が思うように進まず、また、森林の伐採も周辺住民の話し合いの中で延期されており、しかも、引越し先に予定していた公団住宅は折島夫婦には苦手な環境であることがわかり、引っ越し自体を夏過ぎから年明け過ぎまで延ばすことにした。

そういうわけで、折島には、秋を前に少し空いた時間ができたので、急な引越準備で疲れていた気分転換も兼ねて、引越予定の2~3か月後まで介護職の短期間のパートをすることにし、自宅近辺の高齢者施設で探したが、年齢と短期間勤務がひっかかり残念ながらどこにも採用にはならなかった。

その頃、元の勤務先で人員不足になっている話が伝わってきて、旧知の介護主任に問い合わせたところ、2~3か月の短期間のパートでもかまわないので、手伝ってくれないかということになり、週に3~4日の日勤勤務で通うことになった。

折島が、契約のために施設を訪れると、契約期間は一応長くしておきましょうという施設長の意向で、翌年の1月末日になったのだった。

それから、パートの介護職で月に12~14日ほどの日勤を続けていたところ、年の瀬の迫ってきた12月の中旬から施設でコロナのクラスタが発生し、介護職員も次と次と感染し、少数で業務を続ける過酷な状況となった。折島も、12月のクリスマスの前についに発症し、年末年始は、自宅待機になった。症状自体は、だるさと高熱が数日続いたくらいで済んだが、妻に感染してしまい、年末年始は夫婦で自宅に引きこもることとなった。妻は、折島よりも楽そうな症状で、本人も症状の軽さにすっかり安心していたのだが。

折島は、七草がゆのころには、職場に復帰できた。折島自身は、症状も軽かったので、復帰に心配はしていなかったが、いざ職場に立つと体がだるく重く、思った以上に動けないことに気づかされた。若い職員は、復帰してすぐに前のように働いていたが、高齢の折島は少し時間がかかりそうだった。

こんなことがあり、折島は引越しどころではなくなり、職場も人員不足が続き、折島の雇用契約は会社との話し合いで1月末から3月末に更新となった。

1月の中旬から、折島の妻は義母の1周忌があり、福岡に戻り、その足で、引越しを予定している町を訪ね、しばらく滞在し、その土地の様子をいろいろと調べてきた。その旅行から、帰宅後、一気に体調が悪くなり、医者通いをしていたが、2月に入るころにはさらに悪化し、大病院へ緊急入院となってしまった。

それから、約1カ月、転院するなどし、簡単な手術とその療養で、4月に入るまでにはどうにか退院できるまでになった。一時は、生命も危ぶまれるほど悪化し、折島は、突然のことに、おろおろするばかりであった。

折島は、直接の上司である主任以外には、詳しいことは話さず、職場での勤務をシフト通り続けていた。集中力に欠けて、事故をおこさないことを折島はともかく心掛けてはいたが、人員不足が常態化している中でのベテランとして見込まれていた折島の動きは、周りの期待に添えるものではなく、同じベテランからは主任に折島の動きの鈍さについてクレームが来ていたことをあとで知った。

折島は、3月に入り、3月末の契約満了を延期する希望を介護主任を通じて施設長の田中に伝えた。だが、職場は、人員不足などで、混乱しており、主任を通じての田中からの返事はなかなかなかった。

本来ならば、契約が3月で打ち切りか更新かの決定の通知は、1月か2月には行われるのが、一般的な常識ではあるが、契約を経営者側から打ち切りにしたい場合を除いて、即ち、契約更新が経営者側で暗黙の裡に決まっている場合は、3月末から4月の中旬に、事務担当者から新しい契約書を渡され、更新の契約書を交わすことが現在の勤務先である福祉施設と契約社員との長年の慣習になっていた。



今年は、昨年末から今年の初めまで感染病のクラスタが施設内に発生し、入居者や看護、介護従事者にも罹患者が大量に発生することがあり、その影響が長く続いていたので、契約更新の手続きもさらに遅れているようだった。

ただ、これは、折島たち現場に追われていた契約社員が考えていたことで、実は通常通りに、施設長から介護主任と副主任には、1月末あたりから、3月末で契約満了の契約者について口頭での相談があり、密かに協議が行われていた可能性はある。それが、折島たちには、下りてこないだけだったということだろう。

折島の勤務する施設の介護職員は、正規職員と非正規職員に分かれており、正規職員は、週に5日勤務で日勤、早番、遅番、夜勤を務める常勤社員、非正規職員は、経営者との話し合いで合意した勤務スタイル、例えば日勤のみや週のうち2~3日勤務などのパートで働く非常勤職員となり、契約を1年ごとに更新した。

ただ、正規職員も経営者との話し合いで勤務内容を決める職員もおり、正規職員の全員が4つの介護職勤務全般を行なうわけではない。さまざまな理由を施設長に認められ、夜勤を行わない正規職員もいる。

また、定年は、60歳で、これを過ぎると正規職員は、嘱託職員となり、非常勤社員と同じく毎年契約書を交わす、契約社員となり、契約社員の定年は80歳になっている。



折島がこの施設に入職してから、施設長は、7年の間に5人替わった。

折島の契約している施設は、関東各地に60か所以上の医療施設や福祉施設を多数擁し、従業員は4500名、年間の売り上げはグループ全体で300億円を超える企業グループの一員だった。グループの代表者であるオウナー社長はまだ30代後半で、実父が晩年に急遽作り上げた事業を継承したばかりで、企業リーダーとしては途上にある印象だった。福祉の企業グループとしては業界の中では中堅のポジションにあるにしても、折島が日々接していた感触では、どこか経営基盤の脆弱さがむき出しになっている企業体だった。

施設長は、このグループの本部からの、正式には、ホールディング制組織のトップであるオウナー社長からの派遣であり、施設長としての権限もかなり限られているようだった。
1人目の施設長は、折島に面接をし採用した施設長だったが、折島が入職して、10日ほどであっという間に転籍になった。あとで聞いた話によると、看護師や介護士などの職員から本部へ施設長交代の強い要請があり、それがもとで転籍になったらしいということだった。理由は聞く気にはならなかった。

2人目の施設長は、外国籍の働き盛りの女性で、入居者だけでなく、職員にも気を使いながら、熱心に務め、人望もあったが、家庭の事情で、惜しまれつつ1年ばかりで休職になった。

3人目は、もともとこの施設で入居相談員といういわば営業職だった30代の女性で、不動産会社の営業出身というだけあって、営業能力に長け、入居者を集めることはとても上手で、施設長としての経営判断も果断だった。理由はどうあれ、自分が少しでも不要と思った職員には厳しくあたったらしく、彼女が在籍していた3年余りの間に、事務職員は、一般事務から会計担当になったひとりを残して、生活相談員や会計総務、ケアマネが全員入れかわっていた。当時の介護主任も施設長と合わずに辞めてしまい、急遽、入職して1年余りの40代半ばの男性が前職場での主任経験を買われて新しい主任になった。

4人目は、自衛隊から、転職してきた40代後半の男性で、入居者たちとも積極的に交わり、職員全員と個別に対話するなどの気を遣い、円滑な人間関係を大切にした施設経営に熱心に取り組んでいたが、2か月ほどで急に辞めてしまった。個人的な事情があったらしい。



折島にとって、5人目の施設長としてあらわれたのが、現在の田中だった。

折島が入職する以前に、半年余りこの施設に副施設長で在籍していたことがあるということだったので、古手の職員の中には知っている人も少なからずいた。ただ、田中が、副施設長時代にこの施設で何をやったのかという話はまったく聞こえてこなかった。

細面の長身で笑みをたたえた一見スマートな身ごなしの田中は、前施設長があいまいなままにいなくなった後だっただけに、設備の老朽化や職員の人手不足などの問題を抱えていた施設環境が改善され、施設の中が明るくなることを入居者や職員から大いに期待された。

だが、半年も経たないうちに、職員70名のうち、田中施設長の肩を持つ者はいなくなってしまった。

中学高校、大学と都心の有名校卒業で大手都市銀行に勤め、早期退職を機に転職してきた田中は、福祉業界や高齢者施設の素人である上に、高齢者と接する現場の実状にはまったく関心をもたず、常に本部に向けて仕事をこなし、現場からの窮状を吸い上げることは無かった。それどころか、入居者の居室への雨漏りの修繕や空調設備の点検などの施設の基盤設備に関係することを費用の掛かる案件として先延ばしにするなどして、出費を押さえ、本部に報告し喜んで貰える数字だけを気にかけているようにしか見えない行動が多く、人望を失っていった。応接室が倉庫のようになったのは、ほんのその一例に過ぎなかった。

折島は、一介の介護職員であり、施設長の田中とは、会議などの公の場以外で、直接に会う機会はなく、聞こえてくる噂と折島が実際に見た人物イメージからは、エリートにありがちな上から目線であることを本人は気にもせず、常に笑顔でおれば何ごとも解決するというような空虚なことを周りの反応をわかってかわからずか、公の場で平然と言い放つことのできる、少し自閉気味のエリートもどきの変人ぐらいにしか思っていなかった。

折島が初めて個別に施設長の田中に接したのは、毎年行われる契約更新の席だった。
新しい契約書を提示された折島は、昨年の契約書を持参していなかったので、比較することができず、新しい契約書を預からせて検討させてくださいと田中に言うと、田中は露骨に怪訝そうな顔をしてきた。

自宅で、比較すると、賞与についての条項の文章が変わっており、契約社員には、賞与は払われないことになっていた。次の契約についての話し合いで、田中に問い合わせるとまったく払われないわけではなく、施設の営業利益に基づいて払われ、今まで通りということだった。今まで通りならばわざわざ契約書に明記する必要はないのではないかと疑問をぶつけると、グループ会社のなかでここの施設の契約書にだけ、この条項が抜けていたので、今回から加えたという理由だった。納得できる回答ではなかったが、田中にそれ以上の説明はないようだった。

皆さん、すぐに契約書にサインしてましたが、すぐにサインせずに新しい条項について質問してきたのは、折島さんともうひとりだけでしたよと、いつも笑顔の田中には珍しく、憮然とした表情で契約社員の介護職の分際で文句を言うなとでもいうように告げたのだった。

折島は、暢気な契約社員の同僚たちに呆れるよりも、介護職員が契約書の内容のことで質問してくることを想定していなかったという田中の介護職を見下した経営姿勢に呆れた。

次に、田中が折島に声をかけてきたのは、介護福祉士試験に折島が合格したときだった。

折島の勤務する施設では、介護福祉士に合格すると、受験勉強でかかった費用にプラスして奨励金が払われることになっていた。

折島は、受検前に所定の手続きを終えており、合格したので、奨励金を楽しみにしていた。
ところが、田中の手違いで、折島に奨励金が下りないことになってしまった。完全に田中の手続き上の過失だった。

そのことを事務職員から聞いた折島はさすがにがっくりした。この施設に田中が赴任してから、初めての介護福祉士合格者であったので、田中も手続き上の間違いに全く気付かずに来てしまったことは想像できた。

折島は、この施設でまだ働く気でいたので、このことで施設長である田中と揉める気はまったくなく、落としどころを考え、事務職員を通じて面会を申し込んだ。

田中は、応接室で、折島に向かいあうなりに、今回の件の謝罪をサラッと述べ、すぐに、折島の学歴の話をしだした。

田中は赴任してからそれまで、折島などの介護職員の履歴をまったく見ていなかったらしく、今回初めて折島の履歴書を読んだらしいことはすぐに分かり、田中が介護はじめ職員の履歴はどうでも良いと考えていたような気がしていたので、やはりとは思った。

学歴の話は、現在の介護職とは全く関係なく、折島にはどうでもいい話ではあった。といっても、めずらしく興奮をあらわにして、自分の学歴の話を中心に親族の学歴の話やら母校の話を楽しそうに話題にする田中にしばらく付き合ってみた。

田中はいつも得体のしれない笑顔を振りまいていたが、このように赤らさまに高揚する田中を折島ははじめてみたし、折島と中学高校の文化圏が同じだという田中の履歴を本人から聞けるのも面白かった。折島と田中の中高の文化圏が同じといっても、それぞれの母校はその文化圏で真逆に位置すると言われており、あまり交流を聞いたことがなかったが。

さすがに、折島の態度が淡々としているので、学歴話に夢中になっていた自分に気づき出し、恥ずかしくなってきたのか、トーンを落として、今回の奨励金が払われない件で折島さんからご希望のことはありますか?もちろん、できないこともありますが・・・

奨励金が下りないことは非常に残念ですが、手続きに間違いがあり、奨励金がいただけないことがわかった以上は、それはもう諦めます。ただ、受検にかかった費用、参考書だとか、受験料などをいただけませんでしょうか?

田中から金額の問い合わせがあったので、施設長決裁で下りそうな金額で答えると少し考えた後に、諾の返事を受けた。

この二回の面接で、田中が自分の学歴や高学歴の家族、都市銀行の社員であった過去に大きなプライドを抱いており、グループ本部の財務会計へ寄与するために都市銀行出身の管理会計のプロとして施設長という役割を務めているという意識であること以上でも以下でもないことを折島はほぼ確信した。

入居者たちが元気に楽しく生活する場を協力して作り上げてゆく看護や介護などの施設職員としての職業意識は、田中にはなく、お客様としての入居者たちをクレームなくアテンダンスし、安全無事に施設の利益を上げ、グループ本部で認められることだけが田中の現実的な目的らしかった。もちろん、大きなグループ会社の本部からの指令がそのようなもので、それに従っているだけとも言えるが。

やがて、田中施設長からこんなことを言われたとか質問された(学歴や家族の職業のことが多かった)が意図がわからず困っているとか、話を聞いているふりをするだけで入居者からの要望を何も聞いていないという、入居者からの愚痴が少なからず、折島の耳に入ってくるようになった。それも、折島は入居者に接する時間の多い介護職の仕事の一つと考え、入居者の不安を鎮めるように受け答えするようにしてきた。

その後も、田中は、勤務中の折島を時折つかまえては、母校の話や入居者のなかで社会的地位の高い親族がいる人のことなどを話題にしてきた。折島は、田中の母校にも入居者自身の履歴や健康ならまだしも入居者の家族の社会的位置にもそれほど興味が持てず、そっけない会話にしかならなく、やがて、会話の数も減っていった。

昨年7月に折島が退社する際にも、田中からの引き留めはあったが、それはひとえに人員不足を補えないという理由だけで、すでに引越に専念していた折島は丁重に断るのみだった。

田中と折島は、社会人としての職業履歴は全く異なるものあるが、学歴があらわす文化圏みたいなところでは、近所だった。そのことが、田中にとっては、嬉しくもあり厄介なことだったのだろう。しかも、嬉しい部分に共感してこず、慰留などの自分の要望を断る折島を田中は、田中の背景をわかっているように見えるだけに余計に鬱陶しく思ってきたのかもしれなかった。

いちどは去った折島が、介護現場の人員不足の都合があるとはいえ、パートという常勤社員に比べると軽い身分で戻ってきたことに田中が良い感情を持っているとは思えなかった。

契約延期の件を保留にした折島は、1階の応接室を出て、忙しい時間帯になりかけて、折島の帰りを待っているであろう2階の職場へと、普段なら二段飛ばしで上がる職員用の薄暗い階段を一歩づつしっかりと苦い気持ちで踏みしめ上り始めた。

長引いても無駄になるだけの話し合いがさっさと終わったことにはほっとしていたが、田中があそこまで折島を歓迎していない介護職員についてはっきり言う以上は、それなりに実体のあることだろうし、主任に相談はしてみるにしろ、自分自身でその実体を調べてみる気になっていた。

先ほどまでは、見慣れて親しんだ街だったのに、厄介な事件に巻き込まれたとたん、同じ街がどのような危険や憎悪が潜んでいるかわからないジャングルに感じられてきたという、しけた私立探偵小説の一節のような心持になっているのには、われながら折島は苦笑いを禁じえなかった。


<(2)へ続く>


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