偶成02 父と映画、あるいは、戦争
父が映画好きだったこともあり、少年期までの父との思い出には、映画が多くかかわっている。
父は、大正13年(1924)11月に大分県の湯布院で生まれた。前年の関東大震災に上野の根津で被災した父の一家は、湯布院近くにある祖父の実家に避難していた。大震災前には、仕事の関係で家を空けがちだった祖父は、妻と娘二人をともない田舎の旧家に帰郷し、図らずも久しぶりに一家が睦まじく暮らすこととなった。
父が生まれたのは、その翌年だった。
海に面した地方の城下町の武家で育った祖母が、山奥の農村の旧家にはなじまないこともあり、ほどなくして、一家は東京に戻り、父の小学生のときに祖父の仕事の関係で、ソウルに暮らすことがあったが、父が中学に入るときに祖母と姉二人とともに東京の根津に戻り、そのまま東京で10代を過ごし、戦争がはじまったころに、公務員になった。
戦後、父は、29歳で結婚した。
僕が生まれたころは、劇場映画は全盛期であり、父も毎週のように映画館へよく出かけていたらしい。
父は、初めての子であった僕を早くから映画館に連れてゆきたがっていた節がある。というのも、母にそろそろ映画に連れて行ってよいかなと許可を得ようとするのだが、反対され、そうか、まだ早いか、とさびし気に肩を落とす父のうしろ姿をおぼろげに覚えているからだ。
父が母を説得し、やっと母からの許可が出て、連れて行ってもらった映画は、怪獣映画だった。怪獣映画は、子供向けの映画でもあるからというのが父の説得理由だった。しかし、母の心配はあたり、大画面での怪獣と自衛隊との戦闘シーンで僕は泣き出してしまい、父親は僕を抱きかかえあやしながら、劇場の廊下に出る羽目になってしまったようだ。阿佐ヶ谷の駅近くの官舎の古いアパートに住んでいる頃のことだったような気がする。初めて見た映画の題名はわからないままで、長じて調べてみると東宝『大怪獣バラン』(1958)のようであったので、見てみたが、確信は得られなかった。
次の父との映画の記憶は、山手線浜松町駅近くの官舎に引っ越した後のことになる。完成したばかりの東京タワーが大きく空に映えていた。
ある激しい雨の日に歩いて15分ほどの芝園橋の袂にあった東宝系の映画館である芝園館へ父とゆくこととなった。映画好きの父は、引越してすぐに近所の映画館を調べており、芝園館に目をつけていたらしい。母は、雨にぬれても大丈夫なようにと全身をおおうレインコートに大きめの長靴という重装備をしてくれた。まるで、横殴りの土砂降りの中を意を決して父と旅立つような恰好だったことを子ども心に覚えている。
観た映画は、黒澤明の『隠し砦の三悪人』(1958)。
母がしてくれた雨に備えての重装備のいかめしさの方は、覚えているのだが、映画の内容自体は、全くといっていいほど覚えていなかったが、後年観たときに映像に既視感があり、やはり、あの雨の日に観た映画はこれだと思ったくらいだった。
父は、映画を初めから観ることに拘っていなかった。映画館に着くとそのまま入り、途中から観始めて、一周して同じシーンになると、ああツナガッタとでもいうように映画館を後にした。
僕が中学生になり、ひとりで映画館に勝手に通うようになり、それでもたまに父と映画を観るときには、僕の映画の観方を尊重してくれたのか、休憩時間に劇場に入るようになっていた。おそらく、父ひとりで観に行くときは、以前通り、映画の途中であろうとふらっと入っていっただろう。
父の好みの映画は、戦争、西部劇といったアクションもので、役所仲間の噂やマスコミで評判のアクション映画を見に行き、休みの日には、新聞の映画欄をみて、二番館三番館にも出かけていた。といっても、日比谷や銀座にある映画館が父にとっての映画館というものらしく、二番館三番館でも銀座や日比谷有楽町にある映画館を選んでおり、近くても新橋の映画館には行かなった。先に書いた芝園館も1回しか行ってないのではないだろうか。
父は、何ごとにも寡黙だったが、たまに僕の知らない映画のタイトルをぼそっと口にすることがあった。『キクとイサム』(今井正 1959)は良い映画だった、『陸軍』(木下恵介 1944)には、とても感動した、もっと大きくなったら観てみなさい。
ふたつの映画とも公開時に大変話題になった映画だった。
『キクとイサム』は、東北の農村を舞台にした、混血児の姉弟が生きる姿を追ったヒューマン映画だった。
戦時中に公開された『陸軍』は、今観るととても戦意高揚映画にはみえない不思議な映画だ。母親っ子だった父の心を捉えたのは、出征してゆく息子の姿を追いかけてゆく母親の懸命な姿だったろうか。
他にもそれとなく勧められた映画はいくつかあった気がするが、残念ながら覚えていない。
映画のタイトルを新聞欄でみて、それだけの情報で観に出かけてゆくので、見当が外れ失敗することもあった。
まだ、かろうじて父に連れられて映画に行っていた、13歳のころ、『奇襲戦隊』というタイトルの映画が東銀座の東劇でかかっているのを休日の新聞で見つけた父は、僕を誘って親子で見に行った。
この映画は、第二次大戦下のフランスの山中で対独相手にゲリラを行っている民間の山岳ゲリラ部隊を題材にした話で、客を呼び込むためには、『奇襲戦隊』といういかにも戦争アクション映画らしいタイトルをつけたのだろうが、中味は、人間の不条理を描いたフランス映画の一種であり、6人編成の部隊がナチスの基地への襲撃をおえるといつのまにかついてきているフランス人らしきのっぽの得体のしれない男がおり、この男が適か味方かわからないまま一緒に行動するうちに部隊は全滅し、ひとり残された男が、空中に浮いたようにも見える鉄橋でさまよっているシーンで終わるという、後味をどうつけたらよいのかわからない内容だった。(コスタ=ガブラス 1967)
帰り道で、さすがに父にこの映画は何なのか?と聞いてしまったところ、父は非常にがっくりとしたようすで歩いており、そのがっくりぶりがたいへん気の毒になり、息子にアクション映画を見せて楽しませようとして失敗した父を慰めようとこの映画を称賛する、というか、不条理な内容も意表をつく面白さで観て良かったという内容の感想を生意気にもあえて日記に書いた。僕が初めて映画について書いた文章ともなった。もちろん父に見せる文章ではなかったが。
この映画で生き残る不可解な男を演じたのは、高身長で禿頭のミシェル・ピコリで、他の映画ではだいたい女性に関心の高いだけのダメ男のイメージが強く、この配役からしてこの映画は、戦争アクション映画にはならないとは後年思ったことだ。
似たようなことは、その後も起こり、銀座の三番館で観たサム・ペキンパーの『ダンディ少佐』(1965)でも同じようにアクションを期待して行ったら、ダンディ少佐が女郎屋で遊ぶシーンが長く、なかなか戦いにゆかなく、父と子でまたも肩透かしを食らったようなことがあった。
父は、自分の好みを明確にもつタイプではなく、世間で評判の良いものに好奇心をもつタイプだった。例えば、007シリーズを観たのは、007の評判が高くなってから公開された『ゴールドフィンガー』(1964)が初見だった。
洋画を観ることが多かったような気がするが、黒澤明だけは、ほとんどすべて公開時に観ていたのではないだろうか。
『影武者』(1980)が公開になったときには、初日に出かけて行った。そのころは、西武池袋線の江古田に住んでいたが、朝から銀座の映画館へ向かい、午後遅くに興奮して帰ってきた。
興奮していた理由は、映画だけではなかった。
父の座席の斜め前の座席の観客が上映中にいちいち勝手な評価と解説を大声でし始めた。父はだんだん我慢できなくなり、ついに声をあげて戒めたそうだ。相手も何回か言い返してきたが、そのまま終わったとのことだった。日ごろは、内弁慶にすらなれない父が起こした珍事に聞いていた家族はびっくりし、肝心の黒澤の新作についての父の感想は誰も聞かない始末だった。
父は、普段は穏やかで外ずらもよく、家で感情を爆発させることはあったが、年に数回あるかないかだった。ただ、その感情の爆発は、普段寡黙で静かなひとの突然の噴射であり、子ども心にも理不尽な行為に思え、何とも哀しかった。
戦争末期に召集された戦争での体験を自ら語ることは生涯なかったが、戦争映画は好きだった。ただ、日本軍が無惨に負けてしまうシーンのある映画は大嫌いで、テレビならば、すぐにチャンネルを換えていた。米軍対ナチを題材にした戦争映画を見ることが圧倒的に多かった。
嫌いな俳優は、鶴田浩二、木村功。理由をきくと、「スかしやがって」という答えだった。必要以上に二枚目を気取っているように見えたのだろうか。
また、アルコールをうけつけない体質で、酒席が苦手だったこともあり、酔っぱらって問題を起こす俳優は大嫌いで、それまで好きだった俳優も顔も見たくないという状況になってしまうのだった。有名人が酒の上で不始末を犯してしまった事件を知ると、ああ嫌だ、嫌だ、と顔を顰めるのだった。ファンだったはずの三船敏郎も、酒の上での行状を知って、嫌いになろうとしていた。
父の嫌いだった2名の俳優が主演している映画の存在を知ったのは、かなり高年になってからだった。
『雲ながるる果てに』(家城巳代治 1953年)。主演は、鶴田浩二、木村功。
・・・1945年(昭和20年)春、九州南端にある特別攻撃隊基地では、命を棄てる覚悟をした若者たちが今生の思い出となるべき日々を過ごしていた。勇ましく死を覚悟しながらも、この世に残すものに対する愛着や未練がかれらを包み込んでしまう。やがて仲間がひとりひとり大空に向って飛び立っていく。・・・ウィキペディアから引用。
父は、終戦を九州の航空基地のひとつで迎えている。昭和17年に逓信省に入省し、終戦間際に応召された。逓信省勤務から応召された兵は、通信業務に就くことが多かった、と大岡昌平氏も戦時を舞台にした小説で記している。父も通信兵として終戦を迎えたことを息子の質問に答えて言っていた。また、8月15日は、終戦の詔勅が放送される前に通信兵として内容を知っていたので、通信兵の仲間と飛行場の横の草っぱらに寝ころんで過ごしていたこともぼそっと加えた。
父から聞いた戦争の話は、それだけだ。
『雲ながるる果てに』で、特攻機からモールス信号を受信する通信兵の姿を観たときに、少年時に聞いた父の戦時の話を急に思い出した。父と太平洋戦争を舞台にした日本映画を観たことがなかったことも。
僕の少年時には、テレビでは、太平洋戦争を題材にしたドラマを多く放送していた。家にテレビが1台しかない時代でもあり、家族でテレビを囲むこともあり、父と僕は、戦争ドラマも観ていた。ただ、思い出してみると「コンバット」などの米軍vsナチスものが多く、観に行く映画の傾向と似ていた。
唯一、覚えているのは、父がじっと特攻隊のドキュメンタリを厳しい顔つきで観ており、なぜそんなに真剣に観ているのかを聞いてみたかったが、ことばをかけられる雰囲気ではなかったことがあったことだ。また、特攻隊のことをあしざまに決めつけるような発言を耳にすると怒りが顔に現れた。
父が戦争末期の空軍基地でどのような体験をしていたのかは、知らないし、わからない。
『雲ながるる果てに』の原作は、戦没予備学生の手記であり、鶴田浩二、木村功などの出演者や制作陣も戦争体験者であり、それだけに戦没者への追悼を込めて制作されていることは、だれが観ても明らかだ。
この映画を父は観ていたのかはわからない。まして、この映画と父がふたりの俳優を嫌っていたことが結びつくかももっとわからない。もし、結びついたとしても、父の感情は理不尽で両俳優には迷惑な話だ。ただ、そこには父自身の割り切れない思いが垣間みえる気もする。複雑で胸の奥深くで入り組んでいる傷ついた感情だ。
父を思い出すと、父と映画のことを思い出し、父と映画のことを思い出すと戦争の欠片が僕の心に撒い込んでくるのだ。欠片にはどれも未消化で置きざりにされた悲哀のような感情が燻っていた。
そして、父の映画との付き合い方でいえば、ふらっと上映中の映画館にそっと入ってゆくというかもぐりこんでゆく父の姿は、今では、もうまねのできない格好良さだとも、映画と映画館を愛するひとりとして思っている。父にとっては、自然だったかもしれないだけに、そういう映画の観方がとてもうらやましい。