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光の差し込む瀟洒で野蛮な仮装行列  【丘の上の学校のものがたり ③】


001

丘の上の学校に、少年が入学してから1年経ち、学年も一つ上がることとなった。

この1年で、生徒の自主性を重んじる独特な自由な校風にも慣れてきて、奔放ともいえそうな学校生活が身につく一方で、何ごとも自分でやりにいかなければ何も始まらないという厳しさにも曝され、少しは鍛えられてきたようだった。

少年の場合は、部活で先輩たちとの交流があったり、クラスでも親しい友人ができ、一緒に映画に行ったりとたった一人っきりで入学式に投げ出された1年前の入学時に比べれば、雲泥の差であった。

しかし、勉強の面では、相変わらず、さえない成績を続けていたので、両親は、息子の先行きを心配し、入学以前から通っている塾の先生に相談しにいった。両親の相談を受けて、この塾の先生は、破顔一笑で、いま成績が悪いことは心配することはありません、高校になった時にはびっくりするような成績になりますからと答えられた。この塾の先生のひと言で、両親から成績について口をはさむことはなくなり助かったが、言われた本人である少年には、とりあえずは怠けずに塾に通うかと漠然と思うぐらい遠い出来事に感じられ、心の中にできている鬱屈には変わりなかった。これには、自分で向き合うしかなかったのだ。

学校での成績が思った以上に上がらないという他人には話しにくい悩みは、少年だけではなく、多くの同級生たちが持っていることにもだんだんと気づかされた。学校へ行って、勉強して遊んで宿題して遊んで、時々塾へ行って、の毎日を送っていれば、学校の成績がいつも上の方にいてスポーツや勉強以外のことでもけっこう目立っていて地元ではチヤホヤされていたという生徒たちが丘の上に集まってできているのがこの学校だから、今まで通りの勉強のやり方や生活の仕方では通用しないんだよと解説してくれる生徒もいた。その生徒も少年に解説するというよりは、自分に一生懸命言い聞かせているようだった。

「学校とは勉強するところではなく、遊ぶところなんだ」と先輩たちがよく口にする達観にはさすがにまだ至らなかったが、すでに、生徒たちはその方向(=彷徨)に向かっているようだった。

あの、勉強はどこでするんですか?
勉強!? ああ、受験勉強のことか ! あれは、学校じゃないどっかでするんだよ。家とか、塾とか、予備校とか。学校ってのは友だちと楽しいことして、遊ぶトコ。だから、受験勉強が楽しいやつは、学校でも勉強してるよ。

また、経済的に格段に恵まれている生徒たちを目の当たりにしたのは、少年には衝撃だった。まず、気づいたのは、小遣いの心配をほとんどしない生活をしている生徒たちがいることだった。本もレコードも買い放題、弁当は有名レストラン製、家族での観劇、音楽会、遠方への大旅行などの話をすぐ横で聞いていると少年は自分だけがかれらの豊かな世界に嵌められた紙人形のような気持になることもあった。
少年にとって、ありがたかったのは、多くの場合、学校に来てしまえば、そんなことをいちいち気にせずにいられることだった。そして、この学校のだれもが少年と同じように学校のなかでは自由になれることを楽しんでいるようだった。

入学以来の体験は、少年に、それまでにはない、広くて深くて刺激的な世界体験を圧倒的に示してくれたが、それについてゆけない部分もあり、心の奥に深い陰影が形作られていった。
自由な校風の波に乗って明るくはしゃぎまわり楽しみながらも、それに乗り切れない何ものかが少年のなかに出現し育っていた。少年の好きな本や映画は、基本的にひとりで楽しむものだったが、その楽しかった体験の一部でも分かち合える友人が現れたのは僥倖だったが、心の底に外では昇華しきれないなにものかが積もってゆくこともはっきりとわかってきた。

少年にとっては、この1年の体験のひとつひとつが新鮮で目玉が飛び出すくらいにびっくりすることの繰り返しだったが、想像もできなかった現実があることを身をもって知ることは、楽しくもあったし、自分がこれまで体験した現実の小ささと底の浅さをまざまざと知らされることとなった。

002

ややこしい感情を心の奥に抱え、また、それとはやや解離した多幸感も持ち合わせながら、少年は、毎年春の大行事であるクラス替えに向かうこととなった。

丘の上の学校では、学年が変わるとクラス替えが行われた。中学校は1学年300名、1クラス50名で、6クラスあり、クラスの5/6が入れかわることになり、なかなか新鮮だった。

少年は、中1の時には、同じ部活のクラスメイトがいなかったので、今度はさすがに何名かいるだろうと楽しみにしていた。

中学2年の始業式で教室に入ると、朝の陽ざしが差し込んで黒板にあたっているのが、まず、新鮮だった。中庭に向いた窓ガラスから入り込んだ春らしい穏やかな光が室内に散らばっていて、中にいる生徒たちがそこかしこでにこやかに話している様子を映し出していた。まず、眼についたのは、前のクラスからのお馴染みで、こうしてみると黒い制服がだいぶ板についてきていて、自分たちが丘の上の学校の雰囲気にだいぶ馴染んできたらしいことを伺わせた。
新しいクラスメイトには、やはり、部活で一緒の連中も何人かおり、やぁやぁと何だか妙に大人びいたような照れ臭い挨拶を交わすこととなった。同じ部活にもかかわらず、えっ!お前はオレと同じ学年だったのかぁ!とほんとにびっくりしているとぼけた輩までいた。

一通り、新しいクラスメイト達との挨拶が終わり、少年は、誰に言われるまでもなく、いつも通り、小学校からの習慣通り、後ろの席に座り、あらためて教室内を見まわしてみた。皆、少年と同じで、初めてのクラス替えに興奮気味で、あちこちで話の輪ができていて、騒然としていた。

斜め少し前の方から、聞き覚えのあるおよそ中学生らしからぬ大人びた口調でひとをからかって遊んでいる押しの強い声が聞こえてきた。同じ塾に通う、顔なじみだった。塾と同じように、相手が困るような与太を飛ばして笑いをとっており、彼の周りはひときわ賑やかな一角になっていた。

少年は、顔なじみのこともあるし、これから1年は同じ教室なので、挨拶がてら、呼びかけてみた。彼は、びっくりしたようにこちらを振り向き、相手を見定めるために眼鏡を片手で軽くかけなおしながら、少年を見つけるや、長年の仇でも見つけたようにニヤリと笑い、お前もここかぁと偉そうにのたまわった。

少年には、横柄にされる覚えもないので、ああ、まったく迷惑なこったぁとやり返してみた。すると、かれは、ますます嬉しそうにニコニコしながら悪態をついてきたので、少年も負けずにやり返した。そんなことが続くうちに、いつのまにか周りの生徒たちも面白がって、与太を飛ばして喝采をあげて参加してきて、ひとグループが出来上がっていた。教室のなかには、そういう勝手な話題で盛り上がっているグループがいくつか出来上がっており、喧騒の森とも言えるような状態になっていた。

003

この無秩序な騒ぎの中、教室の前の方の扉があき、小柄な30歳ぐらいの男性が、蟹股でゆたゆたと教壇に向かい、教卓の前に立つと、体格に合わない大きな眼と太い眉を物憂し気に動かしながら、教室内の喧騒に向かって、話したい奴は話していろ、オレはこれから諸君が必要とするところをしゃべる、といったことを大声ではないが、噛んで含んだ調子の良く通る声で言い放つとノーネクタイで髪の毛がぼさぼさの飄逸な存在感に教室内は急に静かになり、このクラスの担任との初対面を終えたのだった。

この日は、初めての登場だったので、生徒たちも風変わりな担任に気を飲まれていたが、毎日の朝礼や専門である現代国語の授業、学校のさまざまな行事などで接する機会が多くなると、この先生の言葉には、文学は言うに及ばず、映画(no movie,no life)、酒(美味い!)、女房(愛でも味方でも敵にもなる他者)、所帯(ひとには生活というものがある)、質屋(資金源)、気の置けない友人や後輩との酒盛り(酒盛りをして大いに議論すべし)、闘争(他者、芸術などとの己をかけた交流)、えろ(エロスではなく)、古本屋(文学と酒盛りの資源調達場所)などのことばが独特の口調で所々で顔を出していることがわかり、生活感とユーモアと好奇心に満ちた知的な冒険精神に彩られた彼の個性は、不思議な親近感と敬意の念を生徒たちのあいだに醸し出していた。

丘の上の学校の先生たちの授業はほぼすべて個性全開である。生徒たちは、まず各学科の先生の人間性を知り、それから授業に親しんだ。同じ歴史でも、ある先生にとっては、歴史とは革命が全てという趣きだったし、ある先生にとっては、歴史とは権力闘争だった。前者の先生の授業に革命歌(フランス国歌も入る)は欠かせず、後者の先生の授業は、鎌倉幕府や室町幕府が権力闘争の内ゲバとして解説されその頃の立て看(そのころの大学構内に立っていた新左翼のアジ看板)にあったような文章と文字が黒板に並んだ。ある生物の先生にとっては、生物は美しいもので、広い黒板一杯に細胞図や解剖図などが華麗に展開された。ある漢文の先生は、ご自分を現代の儒者と位置付けており、初めての授業は、「身体髪膚之を父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始なり」と黒板に大きく書き、この言葉を熱意のある言葉で慎重に説明なさった。生徒たちは、訝りながらも静かに筆記した。

少年たちの担任は、この個性的な教師陣のなかでもけして派手ではないが、際立っていた。小柄だが、何だか妙に肝が座っているようなところがあり、生徒たちがいたずらや背伸びしたからかいなどをしかけてもまずは平然と受けて、少し間合いがあってから、ユーモアのある応えがあり、しかも、そのほとんどが生徒の仕掛けた内容への的確な批評だった。つむじ風に巻き込まれても、つむじ風なんだからと立ち去るのを待って様子を見るといった具合だった。一見、機敏な反応がないので感心ないのか理解できないかと失礼なことを思っていると途端にぴしゃりとしたことばでやられてしまう。
ちゃんとしてるか、ちゃんとしろよ!先生のちゃんとしろは、折り目正しく真面目にしろというよりは、自分の心にあること、考えていることを他人や自分に向き合って恥じることなく現実にぶつけているか!という呼びかけだった。先生は、自己満足を恥じた。自己満足とは、「湯の中で放屁し、するするとあがってきた泡が割れて、匂いが漂う、それを嗅いでしたり顔する」「海水浴の海中でパンツの中から小便をして生温かい感触に浸るようなこと」*だった。

少年がクラスから預かっていたお金を失くしたことがあった。体操で着替えてグランドの授業から帰ってきたら失くなっていた。先生に報告し、自分のミスだから自分で償いますというと、しばらく横の方を見ていて、クラス会で皆に相談するのが良いだろうなとおっしゃった。少年の心の底にある、見栄張った取り繕いと自己満足を見抜いたうえでのアドバイスだった。少年は恥ずかしく赤面し、でてきた汗をぬぐうばかりだった。

この担任のキャラクターや朝から日が差す明るい教室、学校の奔放さに慣れてきた生徒たちのはしゃぎぶりで、このクラスに、中学1年生の頃に比べると、やんちゃときびしさがこんがらがった自由な雰囲気が漂いだしていた。それでこそ、丘の上の学校なのだ。

004

少年と悪態をつく彼とのやり取りは日々の習慣と化していった。少年は、受け答えをして面白がっていたが、よくよくあとで思い返すと、彼の悪態には、相手に対する観察をもとにした一種の繊細な投げかけがあり、相手が嫌がることを察知して相手によっては敏感に外してゆくことや話し相手以外の周りの反応を気にして話題をつくっていることに思いあたった。また、自分を囲んでいる世界のなかではぐれ者の位置づけを自分にしていそうなところは、少年と似ているらしく、少年は、ひょっとしたら彼とはいわゆる馬が合うっていうやつかもしれないと思い始めていた。

といって、そんなことを考えていても、ふだんの日常では、ただの悪態をついてまわりの人間を巻き込んで皆で面白がっているだけの話だった。

ここで、少年にとって、大事件が起きてしまった。

クラス委員になってしまったのだ。正確に言うと、ならされてしまったのだ。

ことの発端は、覚えていない。クラス委員の選挙が始まり、あまり興味のない少年は、そんなことお構いなしで周りの生徒といつものように本を読みながらバカ話をしていた。

ところが、何か変な雰囲気が伝わってきた。少年の名前を投票用紙に書くというバカ騒ぎが忽然と行われはじめ、教室に蔓延していってるのだ。本来ならば、優等生が務める役割をあのいつもあの悪態をついているやつの相手をしているあいつにやらせてみようか、意外とあの悪態の相手できるんだから困った顔しながら上手く務めるじゃないか、こいつぁ面白い!といったところらしい。困ったことに、例の悪態男がいちばん煽っているじゃないか。

そういう経緯で、クラス委員にされてしまった。普通の学校ならば、クラス委員は一種の名誉職かもしれないが、この学校では、体のいい雑用係といえた。教室で起きる厄介なことは、クラス委員が解決するとされ、皆安心しきっているというか、相手になってくれないのだ。

主な役割は、授業の始まりの起立礼の掛け声、授業の始まりと終わりの黒板の整頓、生徒協議会への出席、週1回あるクラス会での司会(議長とは言えるものではなかった)などだった。それ以外に不意に誰かに頼まれるのが、職員室にいる教師への用事や担任への質問で、これが面倒だった。

少年は初めの頃は真面目にやっていたが、途中から馬鹿らしくなり、起立礼の掛け声やクラス会の仕切りなどはサボると目立つので務めたが、他のは適当にこなしていた。黒板の整頓は、いつのまにか前の方の席の気のいい生徒がやってくれるようになり、職員室の用事も返事しておけば何となく過ぎていった。

ところが、ひとつだけ手を抜けない仕事があった。授業シフトの調整である。これは、そもそも、教師が休むと自習の時間になることが無駄だと言い始めた生徒がいたことから始まった。

授業は1日6コマで午前4コマ、午後2コマだった。例えば、午後の1コマ目の教師が休んだ場合に、午後の2コマ目の授業をすれば、1コマ早く帰れるわけだ。6コマ目の教師に、5コマ目の時間空いているか確認し、交渉するのがクラス委員の仕事だった。中には、拒否する教師もおり、説得できないで教室に帰って大ブーイングを浴びることになった。

これが、午前中の3コマ目の教師が休みで6コマ目の教師に授業をしてもらおうと思っても、他のクラスの授業が入っていたりすると同学年の他のクラスの授業のシフトを聞いて、自分たちのクラスに希望する教師を希望するコマに連れてくるために、他のクラスの委員たちと相談して、学年のなかの影響のあるクラスの授業シフトを生徒たちの都合の良いように、要するに早く授業が終わるように変えてしまうように、教師に交渉するのが、クラス委員の重要な仕事だった。各科の教師は、自分の授業シフトを把握しているが、学年全体の授業シフトを把握している教師がいるのかどうかはわからず、また、毎日の授業シフトが教員室にわかりやすく張り出されているわけでもなかったので、教師の欠席情報を早く知るためには、とりあえずは朝は教員室にゆくことになった。

中学1年からのクラス委員になるまでの少年の1日は、登校すると、部室にゆき、着替えて靴も履き替えて、教室に向かうことだったが、クラス委員になってからは、部室→職員室(今日の教師の欠席有無の確認)→教室 ということになってしまった。

1日に何回も職員室にゆくが、生徒が職員室へ出入りすることを嫌う教師はほとんどいなくて、少年たちの行動を多くの教師は面白がってみている様子だった。担任の教師は、朝から職員室をちょろちょろするなよとは一応外面上注意するが、生徒たちが自分たちで授業を操作しているのを面白がっている風情があり、担任の許可を得るために新しい授業シフトを報告にゆくとはお前たちではあの先生に授業のシフト替えを頼むのは話しにくいだろうからオレから話しておくよと協力的だった。

午前中の休み時間にほかの教室から、ある先生が急に休んだり、早退したという情報が、少年のもとに伝えられると少年の頭のなかには、空白ができた学年の授業シフト表が浮かび、シフト表にある授業のコマを動かしながら、パズルのようにその空白を埋めてゆく作業が始まり、それがある程度完成すると他クラスの委員とかたらって職員室へと向かうのだった。

他のクラスで行われた授業情報もけっこう重要な場合があった。例えば、他のクラスでの数学の時間に、今日は天気も良く、とても教室で数学何て勉強する気分ではないと生徒がひときわ騒いだら、先生が、そこまでお前たちがいうなら、グランドを見てこい!グランドが空いていたら、今日の数学はサッカーだ!ということになり、サッカーをしたという情報は、クラスの誰かしらからがすぐにクラス委員に言いに来る。すると、クラス委員としては、事の真偽をそのクラスに尋ね、数学の先生にもこんなことがあったそうですねという雑談がてらの確認を取り、クラスに戻り、学校を遊び場と考えている連中にそのまま伝えておく。すると、かなりすんなりと数学の時間がサッカーの時間に変更になったりした。

クラス委員の仕事でいちばん重要なのは、クラス全員がスムーズに授業を終え、部活に行ったり、遊びに行ったり、帰宅できるようにすることだった。少年は、クラス委員を務めてみて、交渉事と調整作業は、意外ではあったが、自分に合っているかもしれないと思うこともあった。

005

そうこうしているうちに、丘の上の学校の最大の年間行事であり、女子校生がわんさと押し寄せ、学園の花とも言われ、準備期間ふくめ1週間ほど学校中がお祭り騒ぎになる文化祭も終わり、あっという間に、夏休みとなった。

夏休みに、宿題はどの学科からも出なかった。現代国語の先生から、夏休み読書のすすめみたいな、著者と作品と文庫名がずらっと書いてある一覧表が配られただけだった。現代国語担当の担任はいつも通り多くは語らず、これは宿題ではないと言うだけだった。およそ20冊はあったであろう岩波文庫を少年たちの多くは、夏休みかかって読み切った。こういう機会がなければ、武者小路実篤や長與義郎や川端康成といった日本文学のマスターピースを自分から手に取ることはなかっただろう。漱石の「こころ」もこのなかにあった。読んだ端から忘れてそのままの小説もあるし、年齢とともに読んだ内容を思い出し再読したものもあった。ここに一覧されていた小説が平等に素晴らしいというよりも、読者である生徒ひとりひとりが自分に適う小説、これは自分の言いたかったこと感じたことだという文章を見つけるようにと配慮されているようだった。

1968年の世の中は騒然としていた、大学生たちによる学生運動が盛んになり、テレビや報道を通して、全共闘という名前も普通に知るようになったし、海の向こうでは、ヴェトナム戦争が激化し日本でも学生運動と連なっている反戦運動のデモ隊を街頭で見かけるようになっていた。フランスでは、のちに5月革命と言われる出来事が起こっており、14歳の少年たちにとっては、それぞれの出来事の意味を解することはできなかったが、それらの出来事が起こす大きな波動のようなものは、だんだんと感じるようになってきた。今暮らしている社会が大きく変わる契機みたいなことが起こり始めているんじゃないかといった抽象的な体感ではあったが。

006

夏休みが終わり、秋の運動会への準備が始まった。文化祭に比べると、全校生徒に参加意識が低く、朝の出席確認が終わると夕方の出席確認まで学校を抜け出している先輩も多いと聞いていた。少年も何人かとかたらって運動会を抜け出すことを企んでいたが、運動会の実行委員会の幹部である部活の先輩に、厳しく釘を刺されてしまっていた。秋も始まりかけたある日、放課後に予定されていた運動会の予行演習に参加するようにと実行委員会から呼びかけがあったが、ほとんどの生徒がぞろぞろと校門から出てゆくありさまだった。少年もこの日は部活は休みだったので、学校抜け出し組の一員として校門を出ようとしたところで、実行委員会にいた先輩に見つかり、おい!帰るやつを止めて、予行演習に参加するようにしろ!と言われてしまい、実行委員側の一員にされてしまったのだった。

運動会には、仮装行列というプログラムがあり、これは、最後に行われる騎馬戦や棒倒しと同じくらいかそれ以上に、運動会で盛り上がるプログラムだった。仮装行列の参加は、クラス単位だったので、少年のクラスでも全員参加のクラス会で、仮装行列で何をやるかについての話し合いが行われた。

仮装行列は、行列なので、時代の流れもあり、アンポハンタイのデモでもやるかといった意見もあったが、そんなことは街頭でやって来いということになり、そのうちに、誰かが、偽悪家めいたニヒルな発言として、こういう権力に反対するデモばかりだから、ヒトラーでもやるかとか言い出した。さすがに、オレたち全員でナチスか!という雰囲気になり、立ちあっていた担任の先生はそもそも自由人なので、このガキどもはなにを言ってやがるという苦い顔つきになっている。

すると、また、誰かが、ヒトラー出すなら、ナポレオンも出そうと言い出し、何だかヒトラーとの対抗馬が現れ、悪逆非道なヒトラーのイメージも薄れ、花やかなナポレオンフランス軍が行列するイメージが膨らみ、クラスとしての運動会にむけてのイメージができてきたところで、もともとクラス会なんか早く終われと思っている多数の賛同をえてしまい、あれよあれよという間に、仮装行列の出し物は、ヒトラーとナポレオンの軍隊のパレードということになった。

少年は、心の中で、あ~あとため息をついていた。

運動会のクラスごとの担当はクラス委員ということになっていたので、クラスで協力し合って、つくってゆかねばならない仮装行列の担当者という音頭取りにもなっていた。部活の先輩たちのクラスは、女装してミニスカートを履くとか言っているのを部室で小耳にはさんでいたので、それなら各自家族から衣装を借りて来ればすぐにできるので、似たような出しものはないかと特に名案はなかったが、何となく考えてはいたところだった。

軍隊のパレードって、いえば、軍服を着て、鉄砲やら剣を持って、ヒトラーはジープ、ナポレオンは馬車、軍服と武器は作らねばならないし、乗り物はどっかでリヤカーでも調達してこないとどうしようもない。手のかかることが目に見えてるし、自分も含めてわがまま勝手な個性集団のこのクラスでできるんだろうか・・・

これが、少年のため息の正体だった。

007

丘の上の学校には、ヘンな法則がときどきあった。法則と言われているだけで、たまたま誰かが思いついたことが風聞になっているだけだが。

例えば、「5分の1くらいの法則」というのがある。何をやっても、5分の1くらいは、熱心にやるが、やはり、5分の1くらいはまったく無関心、という法則だ。(マニアックな正確さでは、5%から20%の法則といった方が良いかもしれないが。)
例えば、勉強について言えば、世の中がどうひっくりかえようとそんなことにお構いなく熱心に勉強する生徒が5分の1くらいおり、反対に、世の中がひっくり返る方がよほど面白いと勉強を後回しあるいはしない生徒が5分の1くらいいる。間の5分の3は、多数派のグレーゾーンで文化祭になると勉強しない派の、試験期になるとがり勉派にいろがわりする。

仮装行列の準備でもこの5分の1の法則が徐々に現れてきて、5~6人から始まったグループが熱心に仮装道具をつくるための計画を立て始めていた。軍服は、制服の上にワッペンやら紐を垂らして装飾するとそれらしく見えてきた、軍帽は丈夫な紙でつくり、軍靴は段ボールを加工して色を塗り足に巻いた、刀剣や鉄砲は講堂の裏に積み重ねられていたもう使用していないいすや机を解体して加工して作る方針をだれかが立て、実行していった。

008

運動会が近づくにつれ、準備作業に加わる生徒は増えてきて、放課後にも残っておこなうようになっていった。少年が運動会の委員会に出席して、残りの作業を手伝うために教室に帰ると20人ぐらいの生徒が一生懸命に仮装の衣装などを作っていた。もう外は秋の夕暮れが始まり、黄色味を帯びた室内灯が、冗談を言いながら、作業を進めている生徒たちを照らしていた。何ごとについても直前になると俄然頑張りだすという校風があることを先輩に言われていたことを少年は思い出した。それと賑やかな祭り好きの校風も。

そのうちに、グレーゾーンの連中も動き出し、仮装の準備は活気を帯びてきて、だれもが認める5分の1の不良ゾーンなのに、5分の1のがり勉真面目ゾーンにもときどき秋波を送っていたマメな生徒が、リヤカーは任してくれ!と言い放ち、翌日には、どっかからリヤカー2台を借りてきて、道具はすべて揃うことになった。

少年たちは、運動会に熱くなっているわけではなかった。ただ、運動会の仮装行列というイベントを楽しみ始めたのだ。だから、クラスの力を結集して云々とかいうのはまったくなく、皆相手の動きを読みながらも自分勝手にやっていて、そこには統一性への意志などは全くなく、清々しく爽やかな雰囲気だった。

009

運動会の当日は、難なく過ぎていった。その年の運動会は、校内のグランドで行われたこともあり、生徒のなかで途中抜けする連中も比較的少なく、家族や近くの女子校からきた見物人もグランドの際までびっしり入っていた。

ナポレオン軍士官たちの勇姿

仮装行列の出発前に中庭に集合して準備を進めたが、士官たちもサボることなく集結し、ナポレオン軍隊やナチスの軍団は、ミニ・スカートやクレオパトラの女装や縁起物を題材にした他の仮装のグループが大勢いる中で少しばかり異質な存在感を放っていた。この時代の若者の基本姿勢は反権力であり、ヒッピーが着ている反戦の意味のアーミールックではなく、擬古調のアーミールックなんぞは、反動と後ろ指さされても仕方なかった。

ヒトラー役は、いつも悪態をつき、わがままな自分の言動をことさらに戯画化して笑いをとる生徒だったが、さすがに、今日は神妙な顔でヒトラーとしてジープに座っていた。彼のところにゆくと、さすがに周りの訝し気な厄介者を見るような視線にさらされて、珍しく弱気になっていて、妙に似合っているちょび髭をふるわせながら、早くやっちまおうぜとか言っている。そうはゆかない、グランドへの登場順というのがある。だいたい、ヒトラーを提案して自分でヒトラー役を演ると言ったのは、お前だろ!

グランドに出るとナポレオン軍は、花やかな士官軍服や日本人のナポレオン好きで受けたのか見物からの反応も良く、けっこう楽しくなり、皆でゆっくりと馬車と軍列をすすめたが、その後に続いているヒトラーナチス軍に見物からのこれといった反応はなく、弱気のヒトラーは、早く進めろ!と大声出しているのがナポレオン軍まで聞こえてきて、ナポレオン軍やドイツ軍の兵士たちは窮地に陥ったヒトラーを面白がりさらにゆっくりとすすんだ。だが、ヒトラーのジープがだんだんと暴走し、ジープだけでもナポレオン軍を追い抜きそうになり始めたので、しかたなく退場口へ向かったのだった。

010

運動会は無事に終わり、クラスはまた分散状態となった。

午前8時からの朝礼は、あいかわらず騒然としており、早朝から横や後ろ向いて話しに夢中になっている生徒たち、読みかけの本やマンガを読み続ける生徒たち、弁当をかき込んでいる生徒、ラジオをイヤホンで聞いている生徒、新聞を大きく広げて熱心に読んでは時事放談を勝手につぶやく生徒もおり、そのなかで、担任の教師は飄々と出席を取り、生徒たちもなぜかきちんとひとりひとり返事をしていた。

そして、担任は、今日もお前らちゃんと生きろよ!と言わんばかりにじっと教室内の生徒たちを見つめた後に、小柄なからだの中にある鈴でも鳴らすようにしてゆさゆさと朝の光で映えている背を見せながら静かに退室していった。

こうして、丘の上の学校で2年目を泳いでいる少年たちの1日が始まるのだった。

【了】





文中の*は、栗坪良樹『曠野より』ふらんす書房刊より引用しました。



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