14歳でイギリスに単身留学したら色々あったよ☆というお話 第3話
(第2話はこちら)
その二人の内の一人、Hちゃんは当時の印象でいうと、いわゆるイケイケな感じでした。
日本では、いわゆる読モ的な事もやってて何よりも我が強くそして美人。(あー、今日からよろしくねー)てな感じのオラついた感も持ち合わせてた子でしたw
とはいえHちゃんはとてもオープンな性格だったので、ガンガン人とコミニュケーションを取って行くうちに英語もみるみる上達し、友達も増えていきました。
完全にシャイボーイだった自分は、へたくそな英語で話しかけるのがどうしても嫌で、あまり他の生徒に積極的に話しかける事も出来ず留学最初だっていうのに、全然自分の殻から抜け出せず、気がつけばHちゃんやもう一人の日本人のRさんと日本語で会話ばかり。そんな感じで数日過ぎた後、
Hちゃん「あんたもっと英語でコミニュケーションとりなさいよ。上手くなんないよ英語。」
と言われたあたりで、ハッとしました。
このままじゃやばい
感覚的な表現でしか言えないのですが、色んな留学生と触れ合ってきてみんな共通していえるのは、危機管理能力が優れている、という所です。
このままじゃやばい!というのを察知して、なんにもないところからなんとかする、という感覚が見知らぬ土地で窮地に追い込まれるたびに養われていくんじゃあないかと。
私なんてそりゃあもう情けないもので、顔真っ赤にしながら、恥ずかしい思いいっぱいしながらの留学生活のファーストステップでしたが、
今となって思えばそれですらほんーーのわずかながらの前進だったのではないかと。誇れるものでは全然ないですが、色々とその後の人生の糧となったかと思います。
結果、そのシャイボーイ具合はすこーしずつそれは改善されていき、まあその半年間という短い時間でしたが、友達もいっぱい出来、田舎での生活も少しずつ慣れていき、
とはいえ順調にホームシックにもかかり
ストレスから2週間で体重が7Kg落ち
ストレスからあんまりご飯食べれず、生まれてはじめての卒倒を経験しw
まあ、卒業の頃にはほんーの少しだけ英語も上達していました。まあまだ14歳の子供ながら、必死こいてやっていました。
英語ですが、まあ99.9%の単語がわからないので、辞書を使いながらの授業でしたが最初は普通に紙の辞書を使ってました。当時も電子辞書はあったのですが、なんか紙のほうでやったほうがいい!といわれていたような・・・・・
おかげで条件反射的に単語を聞くと辞書に手を伸ばし、信じられない早さで単語を発見するスキルを身につけましたw最初はもうほんとそれの繰り返し。延々と繰り返し。
学校の先生に日本語わかる人はもちろんおらず、先生も生徒同士が日本語で話してると叱ったりして。まあそれが良かったんだと思います。
やはり色々周りの留学体験やワーキングホリデー体験を聞いてると、(海外来たけど英語わかんないしー。日本人いっぱいいたからついつい日本語でしゃべっちゃうんだよねー!)てな事を良く聞きます。そういう人達に一言いうならば、
気持ちはすごいわかる!w
がほどほどにしないと帰国してから色々大変だぞ☆
話は戻り、そのHちゃんですが、その学校を卒業して数年してまた同じ学校になりまあ何度もガチゲンカの後絶縁し、何度も仲直りしているわけですがw
まあ同時期に同年代で留学して同じ場所で同じ挫折を経験し、いわゆる(戦友)の様なもので、今でも日本でご飯行った際には(あの頃あんな感じだったよねー)的な話で盛り上がりますw
Hちゃんの叱咤激励がなかったら、今の自分はないかもしれないので非常に感謝しています。
半年間のど田舎での語学学校とホームステイ先の往復の生活も終わりの時を迎えました。まあ何度も言いますが、コンビニ的な店までチャリで40分かかるくらいのど田舎なのでw
自然の中で生活していると、人間強くなるもので、最初は色々ビクビクだった私も、(今日の昼飯、昨日のやつの使い回しじゃねーか!新しく作ってよ!)てブーたれるくらいの図太さに成長していましたw
Hちゃん含め、当時いた日本人はみんなバラバラの学校に散って行きました。
当時の心境は・・・・・・・どうだったかなー。
やはりまた新たな生活のワクワクてよりも、不安の方がでかかったような気がします。やっぱりね、根本的にそういう性格みたいですw
ホームステイ先のジェイコブ夫妻に再会の約束を交わした後、お別れをし、タクシーの運ちゃんに連れて行かれたのは
どこからどこまでが敷地かよくわからない、街の様な学校でした。。。。。
ここから私の
血で血を洗う
人種をかけた
生命をかけた(おおげさじゃなく)
Battle in United Kingdomが始まりました。。。。
(イメージ画像)
次回(初めての7人部屋)に続く。
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