こだわり、とらわれ、振り子
これまでだったらやらないと気が済まなかったことに対して「もう…いいかな」と思ったかと思えば、これまでだったらやらなかったことを、かならずやりとげてみせる!と思ったり。
おじさんのことをあげて『極から極へ振れている』なんて書いたけれど、振れているのは私もおなじ。振れないとわかることができない真ん中もある。そしてそれでもいい、と思う。そうだ、思い出した。
『振り子の法則』が身近なところで話題になりだした頃、私は本を読みもせず、人から聞いただけでこんなふうに思っていた。
中庸であること、ぶれないこと。たしかにそれはとてもおだやかで落ち着いた世界にみえる。でも『ぶれないように』という視点に立とうとすると、ただただ小さくまとまった人間ができあがるだけのような気がして。
それだったら私はジェットコースターでいいです。泣いたり笑ったり、高揚したり落ち込んだり、そういうのがあっていいです。悟らなくていいし、ぶれてていい。それが私なんで。
↑と、こんなふうに思っていた。
ところが。
振れているかいないかの話ではなく、
常に対極が見えているか否か、の話であるとわかったのがここ最近。
すべてのものもことも陰陽二相一対で、陰しかない、陽しかないはありえない。どちらも同じだけ含んでいる。光が良くて闇が悪いのではない(とはいえ、何日もおひさまが出ないとメンタルがやばくなるのは事実)。
三次元においては一方しか見えなくなる、場合によってはトリックのようなそれを、時差なく見破れるかどうか。それをものごとのすべてにおいて自然に感じられるかどうか。
なにかに囚われているとき、それは「私、片側しかみえてません」と言っているようなものなのかもしれない。あらためてみてみると『とらわれる』の『囚』ってすごい漢字。
またひとつ、わかるために十数年もの月日を費やしてしまったのだけど、私には『いま』わかる必要があったのだと、そう思う。
夜、投稿してから眠ろうと思ったのに疲れていたらしく寝落ち。毎度なんだかよくわからない文章ですが、フレッシュなまま出荷します。
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