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お盆と参院選 「死者の眼差し」を意識したい

参院選には死者の眼差しを意識してみたい。

東京はお盆を迎えている。初日に迎え火を焚いてご先祖様の霊を迎え、最終日には送り火でお見送りする。先祖供養の日だ。送り火の風情は嫌いではない。もの悲しさ、それを共有する家族らとの一体感を共有する時間、風情は日本人の原風景の一つだろう。特に、8月のお盆の送り火は夏の終わりを感じさせる宵に行われ、寂しさ、哀しさが増す。死者を否応なく意識する。

生者に死者が凝縮する
日ごろ意識することの少ない、死者と生者の交流を意識する貴重な機会だ。この世界は決して生者だけで成り立っているのではないと私は思っている。生者はそもそも無数の死者の連なりの末にあり、いつかはその連なりのなかに入っていく存在だ。生者には死者が凝縮している。死者の列に加わった自分たちのご先祖様が様々な試行錯誤を繰り返して築いてきた伝統や社会、規範の上に私たちは暮らしている。死者の存在を無視することは、実は自分たちの現在と行く末を否定することにつながる。自身が死に向き合うさいの大切な何かを失ってしまうように感じる。

お盆で、私たちは死者があたかも身近にいるかのように振舞う。死者が存在しないと考えると、寂しすぎるからだろう。私たちは死者と「また出会える」という感覚があるからこそ、身内の死を乗り越えられるのではないか。あの東日本大震災で多くの無念の死を抱え込んだこの社会が、なんとか死の悲しみを乗り越えているのは、死者とまたいつか出会える、その時に恥ずかしくないようにという感覚が無意識にせよ社会で共有されているからではないか。

オルテガ「生きている死者」
政治と死者の話をする。『大衆の反逆』で哲学者のオルテガは、死者の存在を重視した。「生きている死者」として死者の民主主義を問うた。

われわれ現代の人間は、突然、地上にただひとり残されたと、つまり、死者たちは死んだふりをしているのではなく、完全に死んでいるのだ、もうわれわれを助けてはくれない、と感ずる。伝統的な精神は蒸発してしまった。手本とか規範とか規準はわれわれの役にたたない。過去の積極的な協同なしに、われわれは自分の問題──芸術であれ、科学であれ、政治であれ──を、まさに現代の時点で解決しなければならない。すぐ隣に生きている死者もなく、ヨーロッパ人は孤独である。

オルテガはロシア革命など、過去を暴力的に否定し変革する事に異を唱えた。生者が「いま」という時間だけを切り取り、「いま良いこと・新しいこと」に熱狂し、飛びついて、過去をすっかり変えてしまう危険性を説いた。現在は過去の蓄積の上にある。過去や伝統のすべてを盲目的に遵守せよと主張しているわけではないが、なぜその伝統や仕組みが生まれたのか、過去の英知に対して謙虚であることの意義を説いている。卑近なレベルでいえば、「ご先祖様がみているから、恥ずかしい真似はできない」と、死者の目を意識し、自身の行為を律することとも通底している。

選挙で多数派を占めればなんでも勝手に決めたり、変えたりしていいということにはならない。死者を意識することが必要だ、とオルテガは主張している。選挙多数派の暴走を抑える「立憲主義」につながる考え方である。選挙で勝ちさえすれば何をしてもよいとお考えの、どこかの首相に読ませたい。オルテガが「大衆の反逆」で示した死者の忘却への危惧は現実化し、選挙によってナチスが生まれていく。

死者の民主主義
そして、オルテガとほぼ同時代の思想家、G.K.チエスタントは『正統とは何か』で、ずばり「死者の民主主義」を主張した。

伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない。(中略)死者には墓石で投票して貰わなければならない

なぜこの国の民が、たとえ米国から与えられたものであったとしても、戦争を放棄する憲法を受け入れていままで大切にしてきたのか。戦争で国内外で多くの死を生み出してしまったこと、何気ない日常や生きる幸せを奪ってしまったことへの痛切な反省と後悔があったはずだ。死者を無念なままに放置するのではなく、その死に意義を与えたいと考えたからではなかったか。そのことで、死者にもこの世に生きていてほしいと願ったからではなかったか。靖国だけが死者を生かすのではない。死者の眼差しを意識したい。

#死 #死者 #参院選 #民主主義 #お盆

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