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「われわれ」はコロナに向き合う運命共同体 その範囲は狭めたくない

新型コロナウイルスに感染する可能性がある人は誰でしょう? こんな問いを発する人がいたら、いまなら「愚問だ」と笑われるでしょう。答えは言うまでもなく「誰でも。EVERYBODY」ですから。

でも、新型コロナが広まり始めた頃、同じ問いに「中国人!」と答えて恥じることのない人たちがいました。いまでも非アジア地域の一部では、日本人も含めた黄色人種があたかも病原菌であるかのように「CHINA!」と罵られて攻撃される事例があるようです。

こうした「区分け」(端的に言えば差別ですね)は、なにも海外でだけのことではありません。東京に暮らす人間はネット上で「トンキン」と扱われ、他県の人たちから「来るな!」と罵られています。県外ナンバーの車に悪質ないたずらや嫌がらせをする人たちもいます。同じ地域に暮らす人同士であっても医療従事者やその家族への差別もあれば、快復した元感染者への差別もあります。

「われわれ」の範囲って?

そんな現実に、ふと思ったのです。「われわれ」の範囲とはどこまでなのだろうか、と。

ウイルスからみれば人類は「われわれ」として全く等しい存在です。肌の色も国籍も貴賤も問わず、ただの感染対象でしかありえません。まだ感染していない人、いま感染している人、感染から生き延びた人の3種類に分けられるだけです。そう考えれば、まさに「われわれ」は叡智を結集してウイルスに向き合うべき、連帯すべき仲間、運命共同体の一員同士です。

でも、現実の人間社会は新型コロナウイルスに向き合うとき、「われわれ」と「われわれ以外」とに、「内と外」とに分断され、差別が連帯を断ち切っているようにみえます。

国境の内と外、県境、市区町村、家族…

「われわれ」の範囲は現状では多くの場合、国境の内側を指しているようにみえます。グローバリズム化のなかで、その役割低下が指摘されていた国家がメインプレーヤーとして前面に出て対応策を打ち出しています。

その一方、同じ国の中で「われわれ」は時に都道府県の境の内側であり、時に市区町村の境の内側であり、時に親しい顔見知りだけであり、時に家族だけになっています。もとは「われわれ」だったはずの地元出身の東京在住者も「われわれ」の外になるようです。「われわれ」の範囲を狭めることに伴い、排他的な行動、差別が強まり、連帯が断ち切られています。

病原体のような「悪」は「外・他所」から侵入してくるものであり、「内側」の「われわれ」だけなら心配ない。よそ者は悪い奴だ。だから入ってこないようにして、差別して追い払えーー。まるで、道祖神をムラの入り口に立て、よそ者は結束して排除するのが当然といったムラ社会の理屈がまかり通っているように感じます。

潜在的な恐怖や嫉妬、恨みが表出

もちろん、感染拡大防止のために外出や移動は極力というか、ぜひとも控えるべきだと私は思っていますので、自粛要請自体を否定するつもりは毛頭ありません。でも、県外ナンバー車への嫌がらなど差別的言動は、恐怖にかられるあまり理性的な判断・行動ができなくなっているようにしか感じられません。関東大震災の際に起きた朝鮮人虐殺と同根です。危機に直面したとき、潜在化していた「われわれ以外」への恐怖(嫉妬や羨望、恨み、怒り、不浄の思いなども)がむき出しになり、「われわれ」の範囲がどんどん狭まっているように思います。

なにも、だからここで「人類みなきょうだい精神で乗り切るべし!」と構えたいわけではありません(そういう全人類的協力関係、ムーブメントが主流になれば素晴らしいですし、ワクチン開発や治療法などはまさに人類として情報や知見の共有をしなければならないことはいうまでもないことです。WHOへの資金拠出を停止した米国などは人類の敵と断言していいほどの愚行です)。ただ、いま起きていることをみれば、現状では国家以外にこの事態に向き合い、効率的に感染拡大防止ができる主体がないのです。

都道府県だけではどうしようもない。コミュニティだけではどうしようもない。企業やNPO、NGOといったアソシエーションだけではかなわない。いくら「われわれ」の範囲を狭めてみても、助け合いはすぐに限界に突き当たり、そもそも感染拡大防止も医療資源の確保もおぼつきません。よきにつけ悪しきにつけ、「われわれ」は国境の内と外で区分して対応することが新型コロナウイルスに向き合うときには最も効率的で有効な手段になっているのです。

「泥船」に乗りあわせた者同士

だから、少なくともこの国に暮らしている者同士(それは国籍や肌の色などとは全く関係なく、ただ暮らしているというその事実だけでの区分)は、いまの状況下では否応もなく運命共同体だと思っています。運悪く残念なことに、共感力や誠実さのかけらもなく、食言を繰り返して統治機構をがたがたにしてきたトップのもとでこの危機をやり過ごさなければならないため、国際的にみて相当厳しい状況だと思います。だからこそ、まさに「泥船」に乗り合わせた者同士、知恵を絞り、お互いに共感力をもって支え合って生きていくしかないのだと考えます。泥船の中で協力できなければ、沈没は免れません。

「あの人はマスクをしていない」「あの店はけしからん」「東京人がなんでここにいる」「そもそもこのウイルスは誰のせいで広まったのだ」--。そんなことに頭や時間や感情を費やしたところで詮無いことです。疲れるし、概ね無駄です。排除と分断は、それが十八番の米大統領らに任せておきましょう。

少しでも快適な過ごし方や自分にできることを考える

この制約の多い時間を少しでも楽しく、快適に過ごす方法や、自分がいまできる貢献方法(ステイホームによって、見知らぬ他者の命を救うかもしれない。そのことがいまは一番簡単で意義ある貢献だと思いますが)を考えた方が、よほど自分のためにも周囲の人のためにも、さらには運命共同体であるこの国に暮らす人たちのためにもプラスになるように思います。つまり「われわれ」のためになると思います。

そして、国内で危機をある程度乗り越えたその時には「われわれ」の範囲を広げましょう。台湾がいま「台湾を守り、世界を助けよう」と世界の国々にマスクを贈っているように。

「われわれ」の範囲を自ら狭め、さらにはマイナス思考と負の感情にからめとられてしまい、流されてしまわないようにしたいものです。

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