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ライフエンディングサポート

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人生最終盤を社会でどう支えるかを考えたい。死に関すること、介護のことなどをテーマにした文書をまとめます。
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#他者

コロナ禍で気づく「余白・無駄」の大切さ

新型コロナウイルス感染拡大防止のために自宅にこもり、可能な限りオンラインで対処する日々が続く。意外とオンラインでいろいろなことができることに気づき、しかもそれが効率的だと感じることさえある。だが、それと裏腹に、目的地に最短ルートで行く効率性よりも、途中でルートを外れて寄り道したり、遊んでみたりすることで得られていたものの無上の大切さに気付かされている。「無駄」の中にこそ、予想もしない新たな発見や思いもしない喜びの源泉があるのだ、と。 「他者」の存在こそが自分を自分たらしめる

オンライン会話は学級会的 「いかがわしさ」が消えている

ZOOMなどのオンラインコミュニュケーションについて、先日「オンライン会話はナルシズムコミュニュケーション化する」と記した。おそらくそれも原因の一つなのだろうが、どうもオンライン会話に感じる違和感は参加者が「いい子」になりがちになるというか、「脱線」が起きにくい点にあるような気がする。ZOOMの場合、ホストによる中央集権的管理が働くせいもあるのかもしれない。 茶々のいれにくさそもそも参加者が一斉に「わーっ」としゃべりだすと、リアルの場とは比較にならないぐらい何が何やらわから

オンライン会話はナルシズムコミュニケーション化する

ZOOMミーティングに参加していて、新型コロナウイルスによるコミニュケーションの変化が話題になった。私が指摘したのは、オンラインコミュニケーションは人類が体験したことのない「会話」形態だということだ。なにせ自分の顔を見ながら、同時に相手の顔も視野に入れて話すのだから。鏡を手にもって自分の顔を見ながら話しているようなものだ。これがコミュニケーションに質的変化を促さないわけがないと思っている。ナルシズムコミュニケーション化とでもいえようか。 否応なく自分を見ながら話す教壇や講演

afterコロナをディストピアにしない 権利制限はあくまで異常事態の自覚を

新型コロナウイルスに関する文書をnoteで、思いつくままに書いてきた。これからも書くだろう。甘いというか、こうあってほしいという願いを込めての内容になっているし、これからもそのスタンスは変わらない。それは意識しながらのことだ。というのも、実は怖がっているからだ。できるだけ希望を見出したいからだ。すでに同様の指摘は様々になされているところだが、afterコロナ社会で一番恐れ、また最も考えられるのが、実は市民的諸権利をいとも簡単に放棄することに慣らされてしまった大衆が構築する社会

withコロナ 関係性の中に生きる自分を意識する

新型コロナウイルスのパンデミックで、はっきりとわかったことの一つは、私は一人では生きられないという実に当たり前のことだった。医療、商品の生産・流通、公共交通機関、宅配、警察・消防…。そうした「社会」がなければ、社会を形成している直接は顔も知らない「みえない他者」がいなければ、自分一人では生きていけない。要は関係性の中で生きているということをあらためて認識した。そうした「みえない他者」への配慮、慮りの行動といってよいと思う「自分が感染源にならないように」という種々の行動は、この