コロナ禍がもたらした自由の功罪

日本でコロナウィルスが猛威を振るい始めたころ私は中間管理職となった。社会全体が大きく変化を強いられるなか、我が社でも大きな変化があった。それがリモートワーク・分散出勤などの導入である。(今では全て解除され、通常出勤に戻ったが…)そんなタイミングでまとめ役に任命されてしまった私としては日々が地獄であった。出社する人間・しない人間を分け、リモートワーク組から提出される資料等に目を通し、出勤組には指示を出す。それに加えて自分自身の仕事も当然あるのだから、これはもう1日にこなせる仕事量を大幅に超えていたと思う。
1年半その役を務め、最終的には鬱病の診断を受け休職することとなったがその話はまた別のnoteにまとめてあるので興味がある方はそちらをご覧ください。
話が逸れたが、コロナ禍は良し悪しは別としても企業や働き手に様々な意味での『自由』をもたらしたと思う。

もたらされた自由

日本の企業はとにかく長時間労働を素晴らしいものとして捉える風潮がある。勤務時間前に出勤し、サービス残業は当たり前。定時退社する奴は悪魔の手先のように見られ、上層部からは怠惰な人間と釘を刺される。腐った世の中、風潮だと思うが、無くならないのが現実だ。そんな中コロナ禍により極力会社の中にいる時間を減らそうとした企業もある。弊社を含めてリモートワークへの転向などでその恩恵を受けた人も多いのでは無いだろうか。
弊社の若手社員もこれ幸いとばかりにリモートワークに移行し、極力出勤することを避けた。別にそれが悪いことだとは思わないし、半若手の私としても長時間労働に潰される若手が減ることは喜ばしい事だと思った。よく分からない飲み会は無くなり、上司のどうでもいい話を聞かなくて済むのは心が晴れ晴れとするようだった。若手は遂に自由に仕事をする権利を得たのであった。

自由の反動

だが、約3年の自由は若手を多少わがままにしてしまった。
「わがままにした」というと語弊があるかもしれない。正確には「自由とわがままの区別がつかない」社員を育ててしまったのでは無いかと思う。
これまで謳歌してきた自由を取り上げられた若手が、仕事を選び始めたのである。弊社では基本的に全員最初は仕事が0の状態で、まとめ役がそれぞれに仕事を割り振って行くシステムになっている。原則は当然全員が同じ分量になるように割り当てる。そこに年齢等の区別は無く、若手も定年間際の大ベテランも同等の仕事量になるように調整を行う。
しかし、ここで若手が異議を唱えることが増えた。しかもその理由が「出来ない」ではなく「やりたくない」というのだから始末に負えない。本来『10の時間を使って10の仕事をする』はずなのだが、リモートワーク中は仕事の内容自体もリモートに合わせて簡略化されていたことや、自由に時間を使えていた事から『20の時間を使って7〜8の仕事をする』というのが当たり前になっていた。それが許されていたのだから当然本来の仕事量や時間に戻されると苦痛で仕方ないのだ。結果として「やりたくない」という声が出てきたのである。

自由の功罪

突如もたらされた自由は従来の仕事のあり方や働き方に大きく影響を与えた。無駄な飲み会や若手が潰される程の無茶ぶりが無くなったのは喜ばしい事だと思う。仕事に対してのある程度の自由は当然あって然るべきことだし、無駄は極力排除すべきだろう。飲み会などというパワハラは許すべきではない。日本の長時間労働を美徳とする考えた方は早急に捨て去るべきゴミのような思考だろう。恥ずべき日本の姿だと思う。
一方で与えられた自由にあぐらをかくのはそれも許されるべきでは無いと考える。働き手としてこなすべき仕事は仕事として全うしなければならない。その点はやはり社会人としての責務であると感じる。
ちなみに若手が拒否しまくった仕事の全てはまとめ役である私が引き受ける羽目になった。

これから益々働き方は変容していくだろう。その中で自身の責務というものを少し考えてみるのも働き手には重要なのかもしれませんね。

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