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「街とその不確かな壁」の光と闇

サブタイトル:「ねじまき鳥クロニクル」間宮中尉の邂逅について


前回、南極にある光に満ちた場所について書きましたので、今回は、村上先生の長編大作「ねじまき鳥クロニクル」のなかにある、「光」について書こうと思います。

それは、間宮中尉が、モンゴル ホロンバイル平原の、深い井戸へ、脚、肩を折られて放り込まれた際の体験です。

その井戸には、1日に一度、十秒か二十秒だけまっすぐに太陽の光が降りそそぎます。
間宮中尉は、溢れかえる光の中で、まったく違った人間になってしまいました。

間宮中尉は、次の様に述べました。
「かつて私の中にあった生命あるものは、それゆえに何かしら価値を有していたものは、ひとつ残らず死に絶えておりました。あの激しい光の中で、それらは焼かれて灰になってしまったのです。おそらく、その啓示なり恩寵なりの発する熱が、私という人間の生命の核を焼き切っていたのです。ですから、私は死ぬことを怖いと思いません。死はむしろ救済でさえあります。その救いのない牢獄から私を永遠に解放してくれるのです。・・」


間宮中尉は、村上春樹が創り出したこの虚構の中で、非常に理性的にこの「現象」を分析しようとします。

凝縮された特殊な状況を経験し、(この直前に、上官である特務機関部員は生きたまま、身体中の皮膚をロシア人らに剥がされ死亡している。)あるのは、死を待つのみで、意識が極めて凝縮されていたため、光が差し込んだとき自らの意識の中核のような場所へ降りていけたのではと、彼は邂逅します。

彼は、光の洪水のまっただなかに、自分へ恩寵を与えようとするがごとくやってこようとする「何か」を感じます。生命をもち、恩寵そのもの存在です。しかし、それは直前でふっとその姿を溶解させ、来た光の中へ戻ってしまうのでした。

届きそうで届かぬ、強烈なつかの間の光の中の恩寵。

間宮元中尉は、人生という行為の中に光が差し込むのは、ほんの十数秒で、もしその時示された啓示を掴み取ることに失敗したら、あとの人生は、救いのない深い孤独と悔悟の中で過ごさなければならない、と主人公に教戒し、主人公が幸せな人生を送るように、と手紙を結びます。

私は、この本に出会ってから、何度も読み返し、特にこのエピソードに、なにか心を惹かれ続けました。

「街とその不確かな壁」では、もう闇には、おびやかす邪悪な存在は存在せず、生と死を愉快に自由に行き来さえできる作者の軽やかなる力を感じました。

1994年の「ねじまき鳥クロニクル」から約三十年たち、この光の中にある啓示は、いまや「街とその不確かな壁」のなかに封じ込められてあるのだと確信しています。

おしまい

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