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超自然的な「幸福論」人生の中での稀有な邂逅

人生で本当に幸せだと思うこと。
それは「心が通じ合うこと」ではないだろうかと最近思う。

日常を生活していると「合わない人」が殆どだと感じることもあれば「この人と合う」と思っていたら実はそうでなかった時なんかは時間を無駄にした以上の落胆にも見舞われることもあるだろう。

しかしそれ以上の「幸福」を気づくことが出来る人は幸せだと思う。

親戚家族でさえ120%気が合うと言う事はほぼないだろう。

他人であればなおのことだと思う。

しかしながら、いろいろなイベント事やハプニングが起きたときに「通じ合う何か」を感じることがある。

そういった場合、お互い実は1種のパーソナルスペースを超越した光厳しい「距離感」をとっていることに気づく。

もちろん、120%までとはいかないが、その数字に近づくことが多く稀にある。

そして、そういったものは、超自然的に、神がかり的な的な何かとして、僕自身に提供される。

こういった時、子供の頃に欲しかったおもちゃをサンタさんにもらったような得も言われぬ心地よさが心の中に飽き怒ってくる。

大人になってからも嬉しいことや、楽しいこと、愉快な事はたくさんあるが、そのほとんどが頭の中を経由して「理屈」と呼応してしまう。

だからこそ、この「超自然的な邂逅」は得も言われぬ幸福感に包まれる。

テニスをしていても、お客さんとボレストをしていたり、クロスラリーやゲーム形式をしていると、無言ながらも「ポジティブな情動」が起こることがある。

お互いが何も語らずに、ただひたすら1つのボールを追いかけて、打ち返すことで、1種の恍惚感に見舞われるのだろうか。

とても幸せな気持ちになる。
そして、相手を見ると、笑顔がにじみ出ていたり、笑みがこぼれていたりする。

これも1種の超自然的な出来事に違いない。

このために人生が存在するのかも知れないとさえ強く感じる。

そんな瞬間、相手との間に言葉を超えたつながりが生まれ、時としてそれが深い信頼感や共感を生む。

これはただのゲームやスポーツの特性以上のものであり、人生の中で得がたい喜びと言えるだろう。

こうした体験は、日常生活の中で予期せぬ瞬間にも現れることがある。

例えば、温泉地で見知らぬ人と「ツウ」な時間帯に出くわすとふと目が合い、共に微笑みあう瞬間。

言葉を交わすことなく、その一瞬だけでお互いの心が通じ合う感覚を覚える。

それは、まるで長年の友人のような安心感や親近感を感じさせるものだ。

このように、心が通じ合う体験は、日常のささいなことから、特別なイベントに至るまで多岐にわたる。

それぞれが、人生の中での小さな光となり、心の中に温かな余韻を残していく。

たとえば、家族や友人と過ごす時間、特に共に何かを成し遂げたとき、その成功を共に喜びあえることは、計り知れない幸せを感じさせる。

共感や支えあい、助け合いの中で築かれる絆は、人生における大きな支えとなる。

そして、これらすべての瞬間が、私たちの人生を形作る重要な要素である。

孤独な時もあれば、誰かと深く心を通わせる時もある。

それぞれの体験が、私たちの人生に独自の色を加え、豊かなものにしてくれるのだ。

これからも、どんな小さな出来事であっても、その瞬間瞬間に心を開いて、可能な限り多くの「心が通じ合う瞬間」を感じ取りたい。そして、それが私たちの日常に新たな喜びをもたらすことでしょう。

そして幸せとは「達成感」、達成したら次の超自然的なencounterを目指して自分の道を歩き続けなければならない。

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