見出し画像

東京に戻って営業職から解放されるかもしれない話。

先日、東京への異動の内々示を受けた。


東京から福岡への着任当時、もう東京に戻ることはない、いわゆる片道切符的な異動なのではないかと心配していた私に「3年で東京に戻すつもりだから」と言った重役。黙々と働いていたらいつの間にか3年と半年が過ぎていた。
時折出張に来て掛けられる言葉は福岡でのさらなる活躍に期待を掛ける趣旨のことばかり。これはもしや、本当に片道切符だったのでは・・・?と感じていた矢先の出来事。

「内々示」としているのは、東京での具体的な職務が配属先の都合もありまだ調整中だからだそうだ。私の希望もあり、現在営業職以外の職務で最終調整を行っているのこと。私の後任者は決定しており、本人にも既に福岡赴任を通達しているらしいので、どうやら私の東京行きは確定している状況である。


話を聞いたとき、率直にホッとした気持ちになった。「ようやく、営業職から解放されるかもしれない」と思ったからだ。


-------

絶対に営業にはなりたくない、と思って新卒で入社した今の会社だが、入社当時社内の営業職の割合が8割(!)を超えていた弊社でそんな願望が当然叶うはずもなく、ご多分に漏れず入社から即営業部配属となった。
入社2年目では子会社に出向となり、昭和的な「飛び込み営業」を約2年間経験した。渡した名刺をその場で破り捨てられたり、商談室に呼び込まれたと思ったら、暇そうな顔をしたジジイが出てきて1時間以上説教を受けたりと散々な目にもあったが、ようやく本社に戻り、その後福岡に赴任して約3年半だ。
かれこれ入社から7年半営業職を続けていることになるのだが、一貫して思っていたのは、「やはり自分には営業職を続けていくのはつらい」ということだった。


まずもって数字的なノルマを課せられるのがどうしても耐えられなかった。
ノルマが付くと、仕事を取らなければならなくなる。
仕事を取るためには、仕事を作らなければいけなくなる。
仕事を作るためには、自社のエゴを押し通すパワーが必要になる。

大層な営業マンは、「お客様に自社のエゴを押し付けるなんて三流」などと言うかもしれないし、実際本当にその通りだと思う。
自社の持っている武器をいかに顧客のニーズに合わせて持っていくかが勝負だとは思うし、そうして大きな数字を引っ張ってくる人が社内でヒーローとしてもてはやされるのは分かっている。しかし、さながら無から有を創り出すような仕事は自分には無理だった。営業職を続ければ続けるほど、「この国の経済は誰かのエゴの押し付けが原動力で回っているのだ」という思いが強くなった。


そして営業職は「営業職」を演じ続けなければならないことが何よりも苦痛だった。
お客様の前ではワントーン高い声を出し、自分のペースに乗せていったり、相手のペースに合わせていったりする。そうして向こうの思惑を探りながら、こちらの優位となるように誘導をしていく。
確かに、人対人のコミュニケーションで調和を目指していくことは大事だと思うし、営業という仕事を続けたからこそ、極度のコミュ障だった私が、人との会話を成り立たせる一応のスキルを育てられたという思いもある。
ただ、ビジネスの場で心の調和を利用し、人の心を操っていくような作業にどうしても耐えられなかった。

そのような意思疎通の仕方は本心を見透かされ、やがて破綻する。
一生懸命仕事をしていたつもりだったのに、先方の担当者から無理難題を突きつけられ、あれだけ笑顔で接してくれていた頃からは考えられないほどのプレッシャーを掛けられる。取引先になるべく丁寧に調整をお願いするも、向こうは向こうのエゴで感情が爆発したらしく、電話口で怒鳴られる始末。そんなことが重なった結果、必死で剥がさまいと押さえつけていた営業の仮面は徐々に無理が効かなくなり、気づいた頃には心を病んでしまっていた。


-------

一応は7年半営業職を続けられているわけだし、それなりの結果も残してきたつもりではいるので、致命的に営業職が向いていない、ということではなさそうだ。世の中でもっと適職について悩んでいる人はいるはずだし、贅沢な悩みだと言われればそれまでかもしれないと思う。思うのだが、どうしても無理なものは無理なのだ。
冒頭の重役からは「いずれ福岡の営業所長を担ってもらうかもしれないんだから」などと、3年間での異動の約束を反故にされるようなことまで言われ、とうとう限界に達してしまった。
私は一度考えを整理した上で、社内で思いのたけを「爆発」させてみることにした。


結果、直属の上司にはその訴えが響いたようだが(むしろ響きすぎて申し訳ないくらいだった)、先の重役は面談を重ねても私の思うところを理解してくれていない様子だった。
むしろあえて交わされている可能性が多分にあって、面談後、「現在の状況に納得したように、やる気に満ち溢れた表情で面談室を後にしていった」と会社に報告していたと聞いたときには唖然とした。
そこで心療内科で頂いていた診断書を突きつけて再度爆発を試行した結果、大慌てになったらしく、急転直下で私の東京行きと、営業職以外での異動の方向性が決まったというわけだ。(私の希望が実現するように陰で上司が暗躍してくれていたらしく、本当に感謝の気持ちしかない)


-------

ここまで来て思うことは、まずはやはり「希望を通すためには何かを犠牲にしてでも主張を続け、そしてどんな手段も厭うべきではない」ということだ。
私の働いている職場は少人数であるゆえ、異動の希望の声を上げることは職場の士気を下げることに直結すると思って、なかなか言い出せなかった。数少ない部下である私が「チームを出たいんです」だなんて言って、一緒に頑張っている直属の上司の悲しむ顔を見たくなかった。そうして無理を重ねていった結果が自分の体調にそのまま跳ね返っていった。
もちろんやるべき仕事をやった上でなければ通る主張も通らない、という前提条件はある上で、単なるワガママにならぬよう、自分の気持ちを押し殺す期間を十分に経た後でなら、開き直って声を上げるだけ上げて良いということを知った。(もちろん声の上げ方には配慮する必要があるが、ある程度“タガ”を外すくらいが結果的にちょうど良かった、と思う)
そして最終的に自分自身が対峙するのは、過去の言動からもサイコパスである重役・上層部であることを思い返し、「であれば自分自身もサイコパスになってかかるしかない」と決意を固めてそれなりの手段を尽くした結果、物事が急に良い方向に動いたのだ。目には目を、歯には歯を、である。


しかしながら、何よりも葛藤したのが「福岡でできた友人のこと」である。
福岡に赴任して友達0人だった私が、(最初に飛び込んだサークルがゴリゴリのネズミ講集団で人間不信にもなりかけたが)バドミントンを通じて飲んだり旅行したりする友達ができた時は本当に嬉しかった。福岡に住んでいるTwitterのフォロワーが声をかけて一緒に飲んでくれたり、福岡の名所を教えてくれたこともあった。
そして東京に居た頃は勇気が出ずに踏み出せなかったアイマスのオフ会にも飛び込んで、今ではアイドルについて語ったり、事あるごとに一緒に檸檬堂を飲んだりする友人がいる。ときにはバンド活動をしたり、コンテンツの話題以外でも色々身の上話をしたりして本当に楽しかった。友人たちがいてくれたことで、仕事で沈みがちだった私の日常の彩度は明らかに増していた。
私が声を大にして伝えたいのは、「福岡が嫌で東京に戻りたがっているのではない」ということだ。

ただ、自分にとって「地元」という要素の占める割合の大きさを痛切に感じたのも、福岡に赴任してきてからのこの3年半でのことだった。東京に居た頃は夏休みや正月休みが来るたびに田舎に帰る人達の行動が全く理解できなかったが、今となってはその気持ちが十分すぎるくらいに分かる。
コロナ禍も相まって、東京の友人たちに会いたい気持ちが日に日に増していく(自分のことを忘れ去られていないだろうかという不安もある)。東京に居た頃はなるべく距離を置いていた家族が、少し恋しくなったりもする。
そしてうまく言い表せないが、東京の「空気」には何にも代えがたい安心感を覚える自分がいる。街の雰囲気も含んだ何かがそう感じさせるのかもしれない。誰に言ってもなかなか理解されないが、どんなに街中の大気が汚染されてようと、私にとっては新宿のアルタ前で深呼吸する時の空気が一番肺に馴染むし、落ち着くのだ。


ここまで書いてきたように、明らかに福岡と東京の狭間で揺れている。どちらの友達も、街も、両方好きなのだ。私のカラオケの十八番でもある槇原敬之の『遠く遠く』は、故郷を離れた歌詞中の主人公が遠く離れた土地でも頑張って生きている、というメッセージを唄った曲だが、福岡での生活に馴染んだ今、私はこの曲を福岡、東京のどちらの立場の人間として唄えばいいのかよく分からない心境にいる。

ただ確かなこととしては、今後東京に帰ったとしても、長期休みが来るときっと福岡という土地に戻って、また友達と飲んだり遊んだりしたい、と思うんだと思う。たった3年半居ただけの身で烏滸がましいかもしれないが、自分にとって「帰る場所」がひとつ増えた感覚だ。そんな風に思わせてくれた友人たちに出会えたことには本当に感謝したいと思う。



-------


ここまで散々書いてきておいて何だが、通知された「内々示」が今後ひっくり返る可能性だって十分にある。なぜなら弊社にはそんな例が過去にいくつもあり、私自身も子会社への出向で既に一度身をもって経験したことがあるからだ。
でも今回で私はそういう不条理に負けない力を手に入れた。現時点で会社に文句を言わせないくらいのことは出来ているはず。声高に、したたかに、いろいろなものに負けずに自分自身の主張を通していきたいと思う。


そしてもう一つの「帰る場所」を自分に与えてくれた(と、私自身は勝手に思っている)福岡の友人たちに感謝しつつ、福岡にさよならを言いたいと思う。本当にありがとう。またいつか帰ってきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?