大人になれなかった殺人鬼「サイコ」(点滅社映画日記#2)

夢をみていたの あなたが私を
この部屋に置いて 出て行く夢を
生きてくだけだろ……

筋肉少女帯「ノーマン・ベイツ」


第二回はアルフレッド・ヒッチコックの「サイコ」です。サイコは実は4まであって、全部観てから記事を書こうと思っていたのですが、最近「帰ってきたウルトラマン」の鑑賞にハマっていて、ベムスターを倒す回を観るまでは梃子でも仕事をしないつもりなので、今回は既に鑑賞済みの1だけになります。
ベムスターは最初に出たベムも可愛いけど、改造されて復活したベムも「この世の荒波に揉まれて心を失った」みたいな顔をしていて可愛いので皆も観ましょう。

ベム




サイコ
制作:1960年、アメリカ
監督:アルフレッド・ヒッチコック

あらすじ
アリゾナ州フェニックスにある不動産屋で働くマリオン(ジャネット・リー)は、恋人のサム(ジャン・ギャヴィン)との結婚を望んでいるが、サムは父の借金と元妻への慰謝料を理由にそれを断り続けていた。
いつまでも進まない二人の関係にうんざりしたマリオンは、職場で預かった4万ドルの現金を持ち逃げし、カリフォルニアにいるサムのもとへ向かう。
マリオンは道中、一晩を過ごそうと立ち寄った人気の無いモーテルで、母と二人で生活をしている管理人のノーマン・ベイツ(アンソニー・パーキンス)と知り合う。
応接室で食事をとりながらノーマンの話を聞くマリオンは、彼の異様な喋り方や母親との関係性に恐怖を感じる。
食後、自室に戻りシャワーを浴びるマリオン。彼女のもとに何者かがやってくる…。


ネタバレに気を付けながらあらすじ書いたけど、ここまで書いたら勘のいい人は何となくこの後の展開がわかっちゃいますね。これ以降はネタバレ全開でいくので未見の方は注意です。
でもまぁこの映画で大事なのは、意外な展開とかどんでん返しみたいなものではなく「大人になれなかった人間の痛ましさ」だと思うので、多分大丈夫でしょう。

主役のノーマン・ベイツは父親を早くに亡くし、母親からの過剰な愛を受け続け、それ無しでは生きていけなくなってしまいました。大人になるための通過儀礼を果たせなかったのです。

※通過儀礼とは?

通過儀礼(つうかぎれい、rite of passage)とは、人間が出生してから成人し、結婚などを経て死に至るまでの成長過程で、次なる段階の期間に新しい意味を付与する儀礼。

wikipedia「通過儀礼」


もっとわかりやすく、俺なりの解釈で説明すると、

通過儀礼とは、親や親に類する存在(友達や兄弟、自分自身でも可)を肉体的に、もしくは精神的に殺して存在意義を見つけること。誰かの庇護から抜け出して、人生に立ち向かう状態になること。幼さを捨てること。自立すること。閉ざされた世界から飛び出すこと。
てんとう虫コミック6巻「さようなら、ドラえもん」や「ハロルドとモード 少年は虹を渡る」(1971年、ハル・アシュビー監督)を観ると分かりやすいかも。

俺pedia「通過儀礼」

これが通過儀礼です。

通過儀礼を果たせず大人になりいつまでも親の幻影を求め続けてしまう悲劇は、俺の大好きな映画「ファイトクラブ」(1999年、デヴィッド・フィンチャー監督)でも描かれています。
ただ「ファイトクラブ」が真正面から突撃して闘っていく男の映画だったのに対して、「サイコ」はめそめそとしていて、逃げ腰で、それでいて内省的というわけでもない、なんとも中途半端で情けない男の映画になっています。

ノーマンの言動の端々には「大人になりたい」「独り立ちしたい」「大人の女性と対等に向き合って、男として認めてもらいたい」という願望が隠れているように見えます。
それらを叶えることができないという思い込みや嫉妬から、幸福の為に戦う自立した大人であるマリオンへ歪んだ欲望を向けたのだと思います。

そんな気持ち悪いノーマンですが、俺は彼が好きです。
どれだけ罪を重ねてもそのすべてを母親のせいにして逃げ回る卑劣さや、「成長しなくては、大人にならなくては…」と思いながらも現実逃避を続けてしまう情けなさに共感を覚えるからです。

他のホラー映画の殺人鬼たちは最終的に手痛い反撃を食らって終わることが多いのですが、ノーマンの場合は「ただ長い反省の時間と孤独を与えられるだけ」というのも、他の殺人鬼たちとの差異があって良いです。

そんなノーマンとの対比になっているマリオンは行動力があり、悪事とはいえ自分の力で未来を切り開こうとしているのが特徴的です。
彼女に起こる悲劇は人為的で理不尽なものですが、「人の金を盗み昼間から情欲にふけるみだらな人間を許さない」という、社会からの鉄槌のようにも見えます。
結婚という前時代的な幸せのみを追い続けるマリオンの描写は不快感があるかもしれません。しかし仕事先の客から「不幸を取っ払うには金が無ければ」という言葉を聞き、それをきっかけに倫理や罪悪感の中で葛藤しながらも思い切ってお金を盗んでしまう大胆さや、ふと我に返って「やっぱり罪を償おう」と決意する描写は、胆力のようなものを感じて好感がもてると思います。



 
 最後に蘊蓄ですが、ノーマン・ベイツのモデルとなった人物は、実在した殺人鬼エド・ゲインです。

彼も母親から強い抑圧を受けた人間でした。
そしてエド・ゲインとノーマン・ベイツを参考にして生まれたキャラクターが「羊たちの沈黙」(1991年、ジョナサン・デミ監督)の皮剥ぎ殺人鬼バッファロー・ビルです。


バッファロー・ビルという名前は、西部開拓時代に活躍した実在のガンマンから引用されたものです。

多くのバッファローを狩り、皮を剥いだ経歴を持ちます。
「平原児」(1936年、セシル・B・デミル監督)では主役のワイルド・ビル・ヒコック(ゲイリー・クーパー)との友情や英雄的な一面を強調され描かれていました。

 

自己との対峙を恐れて責任から逃げ続けるノーマンの弱さ、「社会に参加して敗北することを恐れ、子供のままで居続ける」という選択をすることで迎える結末の救われなさは、後に作られていく「血まみれギャングママ」(1970年、ロジャー・コーマン監督)などのアメリカンニューシネマ作品の先駆けになっています。



という訳で、抑圧された生活によって破滅していく二人が主人公の映画「サイコ」を皆さんも是非観てみてください。
 
他にも、母親の歪んだ愛情が子供を狂わせる映画だと、
「ブレイン・デッド」(1992年、ピーター・ジャクソン監督)
「ザ・ベイビー 呪われた密室の恐怖」(1973年、テッド・ポスト監督)
「不意打ち」(1964年、ウォルター・グローマン監督)
「去年の夏、突然に」(1970年、フランク・ベリー監督)
「白熱」(1949年、ラオール・ウォルシュ監督)
などがおすすめです。
 
特に「不意打ち」は最近亡くられたジェームズ・カーンの若かりし姿が観られるので良いですよ。

(ゴム製のユウヤ)

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