お前がなぜ人に伝えないというのかこのバカ野郎

「1917 命をかけた伝令」という映画を観たのですが、とても面白かったので、今回はその話をしつつ、点滅社の方針も話してみます(映画のネタバレをしているのでまだ観てない方は注意です、ごめんね)。


・簡単なあらすじ

第一次世界大戦が舞台の戦争映画。最前線で戦っている味方に「攻撃中止」の伝令を伝えるため、ふたりの兵士が文字通り命を懸けて戦地を駆け抜ける物語。「全編ワンカット風撮影」という斬新な技法で話題になりました。


・具体的なあらすじ
最前線で敵の軍隊が後退を始めていて、チャンスだと思った味方の軍隊がこれから突撃しようとしているのですが、実はこれが敵軍の仕組んだ罠だと判明します。このままだと味方は全滅です。しかし無線が壊れてしまっていて、本部からはそれを伝えることができない。そのため主人公の兵士ふたりが呼び出され、「正直死ぬかもなんだけど、みんなの命がかかってるし行ってきてくれ」みたいな、かなりむちゃくちゃな指令を受けます。

当然、そんなことはやりたくないに決まっています。ひとりは「死にたくないしバックレようぜ」みたいなことを言うのですが、もうひとりの方はそうはいきません。最前線には兄がいるのです。自分が伝えなければ兄は無駄死。止まるわけにはいきません。結局嫌がっていたもう片方も渋々それに付き合い、ふたりは銃弾、死体、地雷、敵兵、鉄条網、なんでもありの最悪の戦場を、なんの支援もなく駆け抜けていきます。

ここから本格的にネタバレです。

途中で、ひとりが死にます。兄がいる方です。突然、不条理に、突拍子もなく、死にます。

彼は自分の死を悟り「兄に渡してくれ」と形見をもうひとりの相棒に渡します。ここで、形見を渡されたその相棒が覚醒します。自分は何が何でも伝えないといけない。役目を果たさないといけない。友達の死を無駄にしてはいけない。

そこからの覚醒には目を見張るものがあります。何が起きても倒れません。血まみれになっても、死にかけになっても、敵を殺しても。結果的にラストどうなったかは書きませんが、多分もう大体わかると思います。


・感想
この映画がものすごく刺さったのです。

仮に兄に形見を渡せたとしても、兄の方だって明日死ぬかもしれない。最前線に伝令を伝えることができたとしても、結局来週にはまた理不尽な突撃命令が出てみんな死んじゃうかもしれない。それなのに伝えたところで一体なんになるんだ?なんの意味もないじゃないか。この映画の主人公はその葛藤と常に闘っているように見えました。しかしそれでも全速力で駆け抜けるのです。どこからくるんだこのパワーは…と思いましたが、なぜか自分が「ニーネ詩集」をつくっていた時とすごくリンクしました。ちょっと恥ずかしいのですが、「おれが今やっていることはまさにこれだ」と思いました。とにかく伝えないといけないのだ。意味がないとしてもやらなきゃいけないのだ。バトンを誰かに渡さないといけないのだ…みたいな感じで、ジーンときたのです…。

たぶん、本当は伝えたところでなんの意味もないのです。どうせ死ぬんだから。どうせ死ぬのに後世に本を残してどうなる?後世だって死ぬ。そもそも人類はいつか滅びる。なのになぜお前はこんなことを?という感情は、出版社をつくる前から今に至るまでずっとあります。いつも心の隅っこにいます。どんなに熱い気持ちの時もいます。だから「なんでそこまでして本を出したいの?」と聞かれると、色々それっぽく理由を話したりはするのですが、うまく言語化できないところがありました。

しかしこの映画を観て少しだけわかりました。めーちゃくちゃ大袈裟な言葉を使いますが、要するにたぶん「人間を信じたいから」なのです。人間を信じたいから伝える。自分がいちばん大切だと思ったことを伝える。同世代に、次の世代に、上の世代に、とにかく伝える。伝わりさえすれば、誰かが助かるかもしれないから。そこからまた別の何かが生まれるかもしれないから。人生にイエスと言えるかもしれないから。人生が最悪で無意味だとしても、それでも人間の力を信じたい。だから「1917」の主人公は無意味と知りつつ走ったのだと思うのです。


…みたいな感じのことを考えてるうちに尾崎一雄という作家の「人間信頼」というエッセイを思い出したので、少し脱線?するのですが、引用します。

とにかく、大きな意味で、人生や人間を佳しと思はせるやうな(建設的な)小説がもつともつと欲しい。「お互ひによくも人間に生まれて来たものだ、二度とは生まれないのだし、仲良くしようよ、そして力いつぱい生きようじゃないか」そんなことを理屈なしに感じさせてくれる小説が欲しい。文學は、人生に於てそんな役目を果たし得る大きな仕事の一つだと思ふ。

尾崎一雄「人間信頼」

かなり前向きで、善意のかたまりのような文章ですが、これに近いことを思いました。そして「ぼくは点滅社でこれをやりたいんだな」と気付きました。


しかしぼくは尾崎一雄よりもひねくれています。「人生や人間を佳しと思はせるやうな(建設的な)小説」も欲しいけど、「人生や人間を最悪だと思はせるやうな(非建設的な)小説」も欲しいと願っています。そしてそういう文学によって救われる人がいることも知っています。たとえばぼくは哲学者のシオランが大好きなのですが、特に「告白と呪詛」の、

これがもう、本当に超大好きなのです。定期的に読み返して救われています。
このアフォリズムには「建設的」のかけらもありません。ひたすらに絶望だけです。でもそれによって、なぜか逆に「まあとりあえずもう一晩ぐらい生きてみるか…」という気分になるのです。


だから、これはかなり暴論かもしれないので正直まだ自信が持てないのですが、ぼくは「人間信頼」と「告白と呪詛」は、本質的には同じものだと思っているところがあります。

両方とも「人間を助ける力」を持っているという点では一緒だからです。

セックスピストルズのGod Save The Queenに出てくる「No Future for me No Future for you(俺たちに未来はない)」という歌詞に人生がひん曲がるほどの衝撃を受けたブルーハーツが1stアルバムの一曲目で「未来は僕らの手の中」と歌ったように、言ってることは真逆なんだけど本質は一緒、みたいなことはあるはずです。


なんだかややこしくなってきましたが、だからとにかく、ぼくは両方が必要だと考えています。「ニーネ詩集」はどちらかというと「人間信頼」に近いですが、それとは正反対の「告白と呪詛」に近いものもそのうちつくります。それによってぼくが伝えたいことの本質は一緒だからです。そしてなんにせよ、全速力で伝えます。伝えなければ意味がありません。正直に書くとぼくは社会のことが大嫌いで、「病気なのはおれじゃなくてクソ社会の方だろうがボケカス」ぐらいのことをたまに口に出して言ったりしていますが、しかしそれでも人間のことは信じています。だから「1917」の主人公のように、気を取り直して駆け抜けて生きていこう、と思いました…この記事自体が伝わってない気がするな。いつかもっとうまく書きます…。すみません。おわり。


春の夜の人のいない伽藍の底に
シンメトリに双子の少女がいて
遊びとは言えないキャッチボールをしている
ぶつけ合っては血の色の 泣き笑いの双子の野球だ
その姉の ギリギリの想いを 怒りを やるせなさを
お前がなぜ人に伝えないというのかこのバカ野郎
俗世間にのまれたか
伝えろ 伝えろ 伝えろ 伝えろ 伝えろ
お前が人に本当に伝えたいことだけを お前は今から
彼女の綺麗な魂のみを伝えたらいいじゃないか

Guru(UNDERGROUND SEARCHLIEバージョン)


伝えます 点滅社はオーケンの遺伝子を勝手に受け継いでいるので…たとえどんだけ痛くても

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