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『瞑想の彼方』 横尾龍彦 回顧展

人間は誰しも大なり小なり内なる地獄を抱えていて、それと向き合わざるを得ない時があるわけだが、芸術家となると、それは一層激しいものになる。
というか、もとより「地獄」に敏感な人間が芸術家なのだろうし、また、芸術家とは「地獄」を「美」へと変化させる宿命を負った人種なのだ。
そして、美を知ることは人間の本質的テーマでもある。





絵の具の色なのか、それとも絵の発するオーラの色なのか。今、自分が見ているものは実態があるものなのだろうか?
横尾龍彦の絵を観ているとそんな風に思う時がある。
展示室の大きな白い壁にぽっかりと口を開けた四角い穴の中を、額縁という窓越しに覗いているような気分とでも言ったらいいだろうか。
穴の中は別次元の世界で、通常では知覚できない、物質ではないもので構成されている世界のよう。しかし、あたかもそこには実際の空間が広がっていて、一口に“幻想”と呼ぶには生々しい光景が展開されているので、同時並行的に存在する別の次元で今この瞬間に起こっている現象を観察しているような気分になる。
横尾龍彦の絵は、現実と重なりあうようにして、すぐそばに知覚できない世界が口を開けているのだということを否応なしに感じさせます。

「幻想絵画」の時代

初期の横尾龍彦は「地獄の画家」などと言われていた。聖書を題材とした絵のは、異端的、悪魔的だと評された。
確かに、1960〜70年代に描かれた暗いトーンの油画は、まるで終わりのない悪夢のようで、観る者の心をざわつかせる。
闇の中に、球体、人間の顔、体の部分、植物のような有機的な物体、毒性を感じさせる色の塊りなどのイメージが混然一体となって次々と、時に曖昧に、時にはっきりと浮かんできては煙に巻かれ、霧が覆い、あるいは、粘着性のある液体にからめとられるようにして再び闇に溶けてゆく…。そんな無限ループの夢。
まるで、己の内面に渦巻く恐れと欲望の念に戸惑うのと同時に、それらが醸し出すグロテスクな美に魅せられ反芻し続けているかのようでもある。
また、仄暗い水の底を思わせるガッシュの作品の不穏さ。独特のにじみの技法でつくられた複雑な階調の中、緻密に描き込まれた人物や獣は、得体の知れない恐怖に怯えているよう。
まあ、どれをとっても明るい絵とは言えないわけで。

象徴主義やシュルレアリスムの手法と、西洋文化、キリスト教、神秘主義の素養が盛り込まれた横尾龍彦の絵は、ディレッタントな文化人を中心に当時から高い評価を得ていたようだが、時代の気分に合致していたのも大きいだろう。
絵画とイラストレーションの垣根がなくなり、デカダンス風のイラストが全盛だった当時の「流行のテイスト」と言ってしまえばそれまでだ。
しかし、それにとどまらない異様な雰囲気が滲み出ている。

何ものかに取り憑かれたような緊迫感の『七つの燭台』や『昼と夜』。『幽谷』や『不思議の国』などの大作は、アストラル界を見てきたかのようだし、『愚者の旅』のストーリー性に圧倒的に引き込まれる。
事実、横尾はたびたび幻視に悩まされたらしいが、その再生装置と化したキャンバスの画面から、ビジョンがレイヤーになって立ち上がり、まぼろしの世界の住人たちのざわめきの声が聴こえ、温度が伝わってくるよう。

これらのビジョンが訴えかけてくるものの正体、それは画家自身の魂の声、としか言いようがないだろう。
描かれているのは、自身が語るところの「無意識の深淵」であり、当時の個展のリーフレットに寄せられた澁澤龍彦の文章が指摘する通りの「内面に存在する地獄」なのだ。
単なる時代の気分でもなければ、異端や悪魔主義を気取ったポーズでもない。必要に迫られて描いたゆえの迫力なのに違いない。

リーフレットに載っているこの頃のポートレイトの横尾サンは気難しそうな顔をしていて、ストイックなキャラクターに見える。黒縁の眼鏡の奥の鋭い眼差しは、芸術家というよりも教師とか検事みたいです。
内面の地獄に苦しみながらも、無意識の深淵に入り込むスリルを楽しんでいる。幻想絵画時代の絵は、画家のそんなような態度を想像させる。

「青の時代」

この展覧会で、最も心を動かされたのが「青の時代」の作品。
私は、どちらかとえいば、確立した一つのスタイルの完成度をひたすら高めてゆくタイプのアーティストよりも、要所要所でスタイルを変化させてゆくタイプのアーティストに興味を持ってしまうのだが、この横尾龍彦という人も年代によってガラリと作風が変わる。
 
ドイツに拠点を移す前後の70年代末頃から、幻想絵画と並行して描かれはじめた「青の時代」の作品は、それまでの作風とは打って変わって、鮮やかな青と暗い色調を対比させた構図の抽象画に近いものとなっている。
ドイツでの個展の際の幻想絵画への微妙な反応が、方向転換のきっかけになったとも本人は語る。確かに、東洋人の描く中世的モチーフ満載のやたらと上手い幻想絵画は、現地西洋の文脈からすれば飛躍があったようで、そのことへの反省でもあるというが、おそらくそれだけではないはず。
変化の時、「地獄」とのたわむれを卒業する時期だったのだろう。
「青の時代」の終盤、眼を患ったことで細密な絵を完全に描かなくなったというのも、どこか必然のような気がしてしまう。

画面の下方に暗い色の塊りがあり、上方は澄み渡る空のような鮮やかな青。細密な描写はほとんどなく、暗い塊りの中にときどき人の顔や球体のようなものが見えたり、青の中に光や雲のようなものがあるだけで、具体的な物体が描かれることはない。こういった、天と地を表すかのような同じ構図の絵が、まるで写経でもするかのように何枚も描かれる。
直接手に絵の具をつけて描いたりもしたという荒々しいタッチが、それまでにはなかった身体性を感じさせる。無意識の深淵が、身体を通してよりダイレクトに、直観的に、キャンバスの上に現れているという感じ。

この時期、横尾は坐禅に励み、シュタイナー思想に入り込んだというが、その体験が、絵に深く影響しているのは確実だろう。
禅の修行が進むにつれて、苦悩や葛藤が解き放たれてゆくプロセスが絵にそのまま現れているかのようである。「青の時代」の展示室にいると、ただ絵を観ているだけのこちらにも、瞑想によって何かが開け、精神が澄み渡っていくような感覚が伝わってくる。
青い絵は、数年間の間に徐々に抽象度が増し、色合いは霞がかったような淡いトーンになり、ごちゃごちゃドロドロとしていた暗いものはしだいに薄くなって、全体が軽やかで明るい印象になってゆく。『大地の歌』で、黒い波となって混沌と渦巻いていたあらゆる苦悶は、『黙示録』という変容の混乱を経て『仙郷』へと向かうのだ。

「青の時代」とは、横尾が、芸術を通して長年行なってきた精神的探究、「自己という地獄を超越し、自己の中の神性に出会うこと」が、成就しかけている、そんな時期だったんじゃないだろうか。
纏っているものを一枚一枚剥ぎ取るように自らを解体する。
かすかに開いた扉から糸を手繰る。
より透明な青へ向かって霧散する。
一人の芸術家が新しく生まれ変わるプロセスは、まさに地獄が浄化されていくみたいな感じなのかも知れない。


晩年の抽象絵画

さて、地獄の大浄化が終わって、80年代末になると横尾の作風は、新境地に入ったようにまた一転して、突如、日本的・東洋的な抽象表現に変わる。
水彩絵具、墨、和紙や砂などの材料を使って、画面いっぱいにではなく、余白をたっぷりとって大胆に筆を泳がせはじめる。書や墨絵を思わせるモノクロームの作品や、円相図の出現。
この変化を、「長い西洋での生活の中で自らのアイデンティティーに目覚めた」とは思えない。単なる日本回帰というよりも、実験、日本や東洋を足がかりにした新たな表現の模索に見える。ずっしりとした油画の質量に耐えられず、物質的な軽さを求め、また、意図を排除しスピーディーに直観を捉える方法を探しているよう。

で、そのようにしてに到達したのが、大きな正方形のキャンバスに、全身で描く晩年のスタイル、「メディテーション芸術」。無我の境地に入って描くことだ。

もはや、巨大なキャンバスの上に現れる模様だか像だかは、絵画と括ることすら無意味のような、よくわからない何かでしかない。
よくわからない。全然わからない。
だけど、すごくカッコいい。ダイナミックで、爽快で、おおらかな、批評の対象とするのもナンセンスな何か。

「自分が描くのではない。風が描く。水が描く。土が描く。」

そう語るように、風や水が、己の遥か彼方に行ってしまって、ただの管となった画家の身体を使ってキャンバスに一瞬を定着させる。『雨を降らす龍』や『風神』や『樹』を描き出す。寸分の狂いもなく、偶然など何一つないかのように。
生涯を通して描いてきた『黙示録』『キリストは神の国へ行った』の清々しさ。『宇宙音響』や、実質的な最後の作品『海』は、あっぱれ、のひと言です。

「メディテーション芸術」は、呼吸を整え、瞑想によって「心身脱落」になって実践したと言えば大仰な感じがするが、公衆の前でのライブパフォーマンスの映像を見ると、だいぶ解放的な雰囲気で、楽しげな感じでやっている。
陽気な音楽がかかるなか、小踊りでもするようにキャンバスを傾けたり揺らしたりリズミカルに水や粉を撒いたりして。
そんな横尾サンの姿から、芸術は、誰にでも開かれていて、アタマで考えるものではなく、自由を祝う儀式なのだというメッセージが聞こえてくるよう。

横尾龍彦の作品のすべてに共通して感じるものは、「流動性」である。
そう、絵が動いていて、片時も止まっていない。しかも、しだいに激しく、年を追うごとに生き生きと躍動しだす。
澱みの中でうごめいていたものが流れ出し、激しく渦を巻き、解き放たれ、飛翔し、束になって勢いよく降りてくる。この流動するエネルギーこそ芸術家の生命の輝きであり、そして、それが個人の人間を超えて宇宙を満たすフォースのようなものへと拡大してゆく様そのものだ。

横尾龍彦が一貫して描いてきた形の無いもの、目には見えない世界は、どこか遠い所なのではなく、常にこの瞬間この場所、人間の環世界の外側である。
そこに存在する大いなる何かと同調すること。それが芸術なのでしょう。
芸術に触れるとき、人は喜び、彼方への旅の途上にある愚者たちは強く勇気づけられるのである。


横尾龍彦 瞑想の彼方
神奈川県立近代美術館 葉山(2023.2.4 - 4.9)

※ 文中の作品のイメージはすべて、図録から複写した部分です。



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