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一人ひとりの文化

一般的に僕たち日本人のコミュニケーションはただ言葉を交わしているのではなく、互いの立場や状況といった背景を忖度するなど、言外に含まれた意図を推察することで成り立っています。いわゆる「空気を読む」と呼ばれる作法であり、言葉の額面だけでない多層的な意味の探り合いが要求されます。

一方で西洋社会のコミュニケーションはずいぶん様相が異なります。メッセージはシンプルかつ明瞭であり、言ったことがそのまま意図として受け取られる傾向にあります。なので、彼らからすると「日本人はハッキリと意見を言わない」という印象を持たれたりするのを、よく耳にします。

こうしたコミュニケーションの作法の違いを論ずる上で、日本のような形態をハイコンテクスト、西洋のような形態をローコンテクストと呼んだりします。コンテクストとは「文脈」のことで、日本のコミュニケーションは言語という「情報」だけでは定まらず、互いの関係性という「文脈」に強く依存するとされています。

そんな小難しい言葉を並べずとも、日本と西洋のコミュニケーションスタイルが違うことぐらい、誰でも知っているでしょう。そのとおり、日本とアメリカのコミュニケーションスタイルは異なります。同様に、日本とフランスも異なるでしょう。

では、アメリカとフランスのコミュニケーションには違いがないのでしょうか?そして、あなたはそれを知ろうとしたことがありますか?

「他者を理解する」というのは当たり前のようで、実はとても難しいことです。それはお互いのことを理解していないからではありません。冒頭の例のように、「日本と西洋」のような大雑把な括りで、しかも「ハイコンテクストとローコンテクスト」という一面の違いしか理解していないのに、互いの違いを「知った気になっている」ことが原因なのです。

『異文化理解力』を読むと「日本と西洋」という対比が、ある一面からの違いに過ぎないということが分かります。また、ハイコンテクストとローコンテクストも二元論ではなく、国ごとに程度の差異があり、たとえばフランスは日本に比べてローコンテクストですが、アメリカに比べるとハイコンテクストです。

文化バックグラウンドの異なる国のコミュニケーションが具体的にどんな違いがあるかを知ることは、日常の意思疎通にも役立ちます。周りを見渡すと、日本人同士だってミスコミュニケーションが頻繁に起きていませんか。

ネガティブな評価をどう伝えるか

冒頭のアメリカとフランスのコミュニケーションの違いについて、大きな違いは相手にとってネガティブな評価をどう伝えるかです。

アメリカ人は世界でも有数の率直な人種だというステレオタイプがあるが、ネガティブなフィードバックに関しては、多くのヨーロッパ文化よりも遠回しに発言する。

どういうことかというと、たとえばアメリカでは子どもが学校から持ち帰ってくる宿題には、「もう一歩、挑戦しよう!」という言葉が返ってくるといいます。しかしフランスでは、「ミス8つ」「スキル習得ならず」という直接的な言葉で、ネガティブな評価を表します。

これは大人でも同様です。アメリカでは相手のアイデアが気に入らない時、「君の考えは素晴らしい。こうすればさらに良くなる」と言って、間接的な否定で評価を下す傾向にあります。ところが、フランスでは「それはダメ。こっちのアイデアにしよう」という直接的な言葉で評価するといいます。

でも、ちょっと待ってください。先ほど僕は「フランスはアメリカよりもハイコンテクスト」と論じました。なんとなく、ハイコンテクストなフランスの方が間接的な言い回しをするように思えてきませんか。

これこそ僕たちの「知っている」という誤解なのです。コミュニケーションがハイコンテクストかどうかと、ネガティブなフィードバックが間接的かどうかは、実は何の関係もありません。たまたま日本人がハイコンテクストであり、かつネガティブな意見を間接的に伝えがちというだけの話です。本書ではこのような見落としがちで同一視されやすい微妙な違いを、鮮やかに浮き上がらせてくれます。

合理主義と経験主義

ところで、このほどイギリスが EU を離脱しました。欧州議会でファラージ氏が演説したように、Brexit はまさにポピュリズムの極北ともいうべき政治運動でした。Brexit は欧州内での孤立に繋がり、経済的なリスクの高い決断です。それでも大衆が熱狂した理由は何だったのか。

端的に言えば、移民です。

EU 域内を自由に移動できる枠組みにおいて、イギリスでは「移民に職が奪われている」という不満が2008年の金融危機以来、根強く残っていました。ただ、同様の話は他国でも耳にしますね。ドイツでは移民政策が転換期を迎え、フランスでも古くから移民に厳しい視線が晒されていました。

欧州の他国でも同様の傾向なのに、なぜイギリスだけが EU 離脱という選択に熱狂したのでしょうか。僕はこうした差異に哲学が作用していると仮説立てています。

哲学の世界には、合理主義と経験主義という、大きな二つの区分があります。合理主義とは世界が大きな理性によって成り立っているという立場、経験主義とは世界が白紙から書き足されて作られているという立場です。最初にシステムがあって人の行いを最適化していくか、最初に人がいてシステムを調整していくか、という違いです。

フランスやドイツといった大陸では合理主義が育まれました。なぜなら、大陸の国境は自然の物ではなく、戦争や宗派で引かれた政治的なものだったからです。したがって、より多くの領土を手に入れるにはより多くの人を納得させる強いシステムが必要だったのです。システムは王権や宗教、国家など様々な形で姿を現しますが、この求心力が支配の決め手です。

ところがイギリスは海に浮かぶ島であり、国境は自然に形成されていました。そこで生まれたら自動的にその国家に属するという環境では、システムよりも「人の住まい方」にフォーカスされます。イギリスは典型的な経験主義の思考構造で発展してきました。

経験主義の思考下では、所与のものは国土であり、システムではありません。EUというシステムに国を最適化するという発想よりも、システムが合わないのだからやめてしまえば良いという発想になるのも分からなくはありません。

僕たちから見ると「ヨーロッパ」という大きな枠組みの中にいる国々においても、哲学などの文化バックグラウンドを知ると、大きな違いが現前してくるのです。

差別やハラスメントと戦うために

「異文化を知る」というのは、単に違いがあることを認識することではありません。違いに直面した時、自分が抱いている先入観を直視し、そのたびに考えを新たにするという更新作業なのです。これは国の違いに留まりません。ジェンダー、年齢、宗教、社会的境遇、あらゆるバックグラウンドの違いを垣間見た時、無意識に「きっと、こういう人だろう」と思っていないか問い続ける必要があります。

「日本と西洋」という大雑把な括りのように、ひとつの尺度の特性を安易に全体に拡張した雑な理解が勘違いや先入観を生み、最後には差別やハラスメントとなって人の尊厳を傷つけることがあります。

不快な感覚というのは非常に身体的なもので、「説明できないけれど、瞬間的に嫌だと感じる」ものである。この「快と不快を分ける枠組み」というのが、実は私たち一人ひとりが持つそれぞれの「文化」なのだ。

同じことを伝えようとしても、同じ言葉を使ったとしても、「一人ひとりの文化」はそれを同じにはしてくれません。相手が示す物の考え方や表現方法の向こうに「一人ひとりの文化」を想像しなければ、些細な一言でも相手の尊厳に触れてしまうことだってあるのです。

フランス革命に多大な影響を与えた哲学者、ジャン=ジャック・ルソーは「我々は無知によって道に迷うことはない。『知っている』と信じてしまっているから道に迷うのだ」と説きます。差別やハラスメントと戦うためには、多様性を尊重するためには、僕たちは何よりもまず「相手のことを知らない」ことを自覚しなければなりません。

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